当時のイスラエルの問題は指導者の堕落にありました。指導者が正しく立ってこそ、国も正しく立つのです。彼らがどれほどの悪を行ったかについて、聖書は次のように記録しています。
「わたしは言った。聞け。ヤコブのかしらたち、イスラエルの家の首領たち。あなたがたは公義を知っているはずではないか。あなたがたは善を憎み、悪を愛し、人々の皮をはぎ、その骨から肉をそぎ取り、わたしの民の肉を食らい、皮をはぎ取り、その骨を粉々に砕き、鉢の中にあるように、また大がまの中の肉切れのように、切れ切れに裂く」(ミカ3:1~3)
真理を守り教えるべき指導者たちが、真理を行うどころか、不義を行い、民を踏みにじる行為にふけりました。この時代の多くの指導者たちが神様に仕えると言いながらも、いろんな不義を行っているのは、彼らの宗教行為が結局は自己満足と自己欲望を満たすための手段と見なされているからです。
今日を生きる私たちもまた、神様に仕えると言いながら別のことをたくらんではいないか、自ら点検してみなければなりません。もし、自己満足と自己欲望を満たすために礼拝をささげているなら、これは神様に仕えているのではなく、偶像を拝んでいるにすぎません。結局、私たちの人生は変わりません。
神様は、多少能力が足りなくても正義感のある公義の人を求められます。正直、人の能力というのは神様の前ではそれほどの差はありません。能力が足りないのなら、神様が下さればいいのです。逆に能力の足りない人は謙遜であるから、神様がたやすく用いることができます。
一番危険な人はどんな人でしょうか。能力はあっても、正義感のない人です。他人よりもずっと優れた能力を持っているにもかかわらず、これを正義のために用いず、自分の利益のためにだけ用いる人です。こんな人は結局自分を害するだけでなく、他の人も駄目にしてしまいます。国と社会に害を及ぼします。
このことは、歴史が如実に証明しています。だから、神様を喜ばせるためには私たちがまず神様の御前に正しく立たなければなりません。神様が認める人生を生きなければなりません。常に神の国とその義とを求める心で満たされなければなりません。
「だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます」(マタイ6:33)
さらに、常に神様に頼り、善を行わなければなりません。
「主に信頼して善を行え。地に住み、誠実を養え」(詩篇37:3)
神様は正義と公義の神様です。神様の御前で正しく生きようと努める人々にいつも祝福を与えられます。誠実と正直をもって犠牲的人生を生きる人々に成功を贈り物として下さいます。ここで「正義」とは、法廷で言う「社会を構成し、維持する正義」を指し、「公義」とは、「人間関係に不義がないこと」「他人を悔しくさせたり、不法を行ったりしないこと」を言います。
さらに、貧しい者や弱い者に対する保護に努めることです。聖書の言う「正義と公義」とは、消極的には神様の法に逆らわないことを言い、積極的には貧しい者を助け、配慮することを言います。すなわち、弱者の権利が侵害されないようにすることであり、孤児と寡婦と旅人で代表される弱者たちが自分たちの権利を守りながら生きていけるようにしてあげることです。
このような正義があってこそ、国が成り立っていきます。国家と強盗集団、どちらも組織と暴力という力を持っています。この2つを分ける基準は、まさしく正義です。聖アウグスティヌス(St. Augustinus)は「正義のない政府は強盗集団である」と言いました。正義を無視して私腹ばかり肥やそうとしたら、彼らは強盗集団です。
預言者ミカが見た、正義と公義の崩れた北イスラエル王国は完全で聖なる祭司の国ではなく、不義と搾取にふける強盗集団にすぎませんでした。こんな国は間もなく崩れるのだというのが、預言者ミカが神様から受けた裁きのメッセージでした。
9・11テロの時、世界貿易センターで見られたニューヨーク市の消防士たちの情熱は見習わなければなりません。当時、テロ犠牲者の10パーセントに達する343人が、消火作業の途中で殉職した消防士でした。それだけ多くの数の消防士が死亡した理由は、国家のため、自分たちが面倒を見るべき市民のため、進んで身を投げるという犠牲を払ったからです。
ニューヨーク市の消防隊長であるジョン・サルカ(John Salka)が書いた『人を動かす火事場の鉄則』という本があります。原書のタイトルは「First In, Last Out」(一番最初に入って、一番最後に出て来い)です。本のタイトルでもあるこの文章が、消防隊長リーダーシップの第一の行動原則だそうです。ニューヨーク消防署の消防隊長たちは火災現場でこのような行動原則を実践しているから、部下たちから最高の尊敬と信頼を受けながら威厳を守れると言います。
このような姿こそ、キリスト者が実践しながら生きていくべき姿です。弱者を助ける公義に満ちた人生を通して神様を喜ばせ、人々に尊敬され、褒められなければなりません。正義を行い、弱者に恵みを施すのは、何か大変なことを行っているというわけではありません。
咎と罪のある人たちと、身に覚えのないことで疎外されている社会的弱者の人たちに小さな関心を示すこと、その人たちを憐れみ、特にその人たちに対して罪に定めるような態度を捨ててしまうことです。今も神様は正義と公義を行う人を探しておられます。私たちがその人となるべきではないでしょうか。
(イ・ヨンフン著『まことの喜び』より)
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【書籍紹介】
李永勲(イ・ヨンフン)著『まことの喜び』 2015年5月23日発行 定価1500円+税
苦難の中でも喜べ 思い煩いはこの世に属することである
イエス様は十字架を背負っていくその瞬間も喜んでおられました。肉が裂ける苦しみと死を前にしても、淡々とそれを受け入れ、後悔されませんでした。私たちをあまりにも愛しておられたからです。喜びの霊性とは、そんなイエス様に従っていくことです。イエス様だけで喜び、イエス様だけで満足することを知る霊性です。神様はイエス様のことを指し、神の御旨に従う息子という意味を込めて「これは、わたしの愛する子」(マタイ3:17)と呼びました。すなわち、ただ主お一人だけで喜ぶ人生の姿勢こそが、神の民がこの世で勝利できる秘訣だということです。
(イ・ヨンフン著『まことの喜び』プロローグより)
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