旅先の少しアンティークな部屋のゆったりしたソファに腰かけ、大切な人と年代物のヴィンテージワインのグラスを傾けながら、親密で幸せな時間を過ごしているような気持ちにさせてくれる、そんな映画だ。
「リアリティ・バイツ」「ビフォア・サンセット」など多くの映画に出演したイーサン・ホークは、俳優として行き詰まりを感じていた。ある夕食会で84歳のピアノ教師と出会い、初のドキュメンタリーを撮ろうと決意し、この映画が作られた。
主人公のシーモア・バーンスタインは1927年生まれ(今年89歳)。10代から多くの賞を受賞し、世界各地を飛び回る一流ピアニストだったが、50歳で引退。その後は「ピアニストの臨床医」として多くの世界的ピアニストを育て、世界のピアニスト界からひっぱりだこだという。
この映画は全編シーモアさんの演奏シーンと、インタビューで構成されているが、そこで交わされる言葉は、音楽論や芸術論を越えて、哲学、さらに神学、神を巡る存在論のような趣があって実に興味深い。
シーモアさんは、NYのアパートメントに57年間1人で暮らしているという。インタビュアーが「まるでmonk(仙人)みたいですね」と言っているが、確かにそんな趣がある(笑)。しかしmonkという言葉から連想されるような禁欲や厳格さよりも、全てを音楽にささげて生きる柔和さと喜びと静かな満足が感じられる。
その姿は、中西裕人さんが撮るギリシャのアトスの修道士たちを思い出してしまう。だからmonkの翻訳はむしろ「修道士」「隠修士」のほうがぴったりくるのかもしれない。
ニューヨークといえば、芸術のみならず現代資本主義社会のまさに中心地。そんな街の中に、まるで世を捨てた修道士のように生きる人間がいるというのが面白いし、それこそがニューヨークという街の懐の深さなのだろう。
「教師として生徒にできることは、生徒を鼓舞し、生きる力を与えてあげることです」と語るシーモアさん。教師として多くのピアニストたちを指導しているその姿は、厳しくも愛情があふれている。カメラの前で語られる言葉は、音楽や芸術のみならず、哲学、そしてほとんど神学、それも普遍的真理を求めた中世の神学者の言葉をすら思い出させる。
「音楽を見事に定義できた人は存在しない。だが音楽が感情の言語であることは、誰もが認めてくれるだろう」
「私が考える宗教と音楽の違う点は、宗教には信仰心が必要なこと。神の存在は証明することが不可能だから、信仰心が存在を信じさせる。体験できても証明はできない。だが音楽には楽譜といった目に見える言語がある」
「音楽家としての自分と普段を深いレベルで一致させることができると、やがて音楽と人生は相互に作用し、果てしない充実感に満たされる」
「誰もが皆、その答えを探している。人生に幸せをもたらすゆるぎない何かを。聖書に書いてある―救いの神はわれわれの中にいると。私は神ではなく、霊的源泉と呼びたい。大半の人は内なる源泉を利用する方法を知らない。(中略)救いはわれわれの中にあると私は固く信じている」
「人生には衝突も喜びも調和(ハーモニー)も不協和音もある。それが人生だ。避けては通れない。同じことが音楽にも言える。不協和音もハーモニーも解決(レゾリューション)もある。解決の素晴らしさを知るには、不協和音がなくては。不協和音がなかったらどうか? 和解の意味を知ることもない」
「自分と音楽とのつながりを考えるたび、いつも同じ答えに行きつく。普遍的な秩序だ。夜空の星座が普遍的秩序を目で確認できる証拠ならば、音楽は普遍的秩序を耳で確認できる証拠と言える。音楽を通じて、われわれも星のように永遠の存在になれる。音楽は悩み多い世に調和しつつ、語り掛ける―孤独や不満をかき消しながら。音楽は心の奥にある普遍的真理、つまり感情や思考の底にある真理に気付かせてくれる手段なのだ。音楽は一切の妥協を許さず、言い訳やごまかしも受けつけない。そして、中途半端な努力も。音楽はわれわれを映す鏡と言える。音楽はわれわれに完璧を目指す力が備わっていると教えてくれる」
これらは、やはり世を捨て全てを神の前にささげて生きる修道士や隠修士の言葉のようだ。ただ1つ違うのは、シーモアさんが全てをささげているのは「神」ではなく「音楽」という1点なのだけれども。
一流ピアニストの座を捨て、演奏家ではなく教育者であることに満足しているのか? 教え子のマイケル・キンメルマンはそれを残念がり「芸術家としての責任を放棄していませんか?」と尋ねると、シーモアさんは答える。「だが、私は全てを君たちに注いだ」。そしてこんな言葉を語る。
「長い年月をかけて見いだしたことを、自分だけでやっていれば1つの花しか咲かないが、同じことを生徒たちに伝えれば、いろいろな色のさまざまな花が咲く。自分にも必要な栄養を他の花にも注げば、美しい花で辺りはいっぱいになる」
そこから、有名な「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」 (ヨハネによる福音書12章24節)を思い出すのは、やはり私がキリスト教徒ゆえの思い入れなのかもしれないけれど(笑)。
映画のラスト、シーモアさんは、小さなコンサートで35年ぶりに人前でピアノを演奏する。その演奏シーンたるや、本当に陶然(とうぜん)となる幸せな時間だ。
生きることは忙しい。仕事に、学業に、家族に。だからこそ、ちょっと足を伸ばしてこの映画の幸せな時間をぜひ味わってほしいと思う。
■ 映画「シーモアさんと、大人のための人生入門」予告編