われわれは数多くの「有効期限」に囲まれて生きている。いつ有効期限を迎えるかは事と次第による。私はある時、温泉旅館のオーナーから2枚の無料宿泊券をもらった。でも忙しくてなかなか行けず、15年も過ぎてしまった。
今無料招待券を持ってその温泉に行く勇気がない。別に有効期限が書かれているわけではないが、温泉側はそんな昔の話は忘れているかもしれないし、あるいはオーナーが入れ替わっているかもしれない。
実際、時間の経過により生活条件の有効期限が来てしまい、奴隷にさせられてしまった民がいた。兄弟の陰謀でエジプトに売られたヨセフは、やがてエジプトを危機から救い出したことから首相にまでなり、飢饉(ききん)で苦しんでいた裏切り兄弟とその家族もエジプトに移住させることができた。
ヨセフの貢献を熟知していた王は、彼の家族を優遇した。これがイスラエル12部族の始まりである。でもそれから400年以上経過したとき、自国の歴史を知らない、すなわちヨセフのことを知らない人物が、エジプトの王になった(出エジプト1:8)。
王は、イスラエルの民が増え、力を増すことを恐れ、彼らを奴隷にした。さらに生まれた子どもが男の子であるなら全て殺せという命令まで下した。そこからモーセによる出エジプト劇が始まるわけだが、ヨセフの貢献に伴う待遇は、時間の推移により有効期限を迎えてしまったのである。
われわれが人と何かを約束するとき、無意識的条件が存在することが多い。それらの条件は明確に表明されることはない。約束した本人も意識していないからだ。
それで、状況変化が起きたとき、すなわち責任者が入れ替わったり、長い時が流れたり、人間関係が崩れたとき、それらが約束を守れない条件となり、約束そのものの有効期限が来てしまう。
われわれはこのような事態を避けるために「契約書」を交わす。国家間であればそれは「条約」となる。でも書面になったそれらの約束でも、状況の変化により履行されないことがある。なぜなら書かれた「契約書」であっても、それが条件付きであることが多いからだ。
聖書はわれわれに何に関しても誓ってはならず、ただ、しかり、しかり、否、否、であるべきだと教えている(マタイ5:37)。発言者の人格と威厳のみが言葉の有効性を支えるもので、もしその人格に陰りがなければ、状況によって有効期限が来ることはない。
その模範となるのが父なる神と子なる神である。ヤコブ1:17によると、父(父なる神)には、変化とか回転の影とかいうものはない。そしてヘブル13:8は「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです」と言っている。
すなわち神の言葉・約束には有効期限なるものは存在しない。であるからこそ2千年後の今も十字架の贖(あがな)いが有効なのだ。
われわれは、互いに約束を守るために「契約書」を交わす。でも契約書以前に、自ら発した言葉に有効期限が来ないような人格と威厳を保てば、契約書では勝ち取ることのできない「信頼」を築き上げることができ、ビジネスの発展にもつながっていく。
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