私は車でどこかに複数回行くとき、毎回同じ道を行くのではなく、あえて知らない方の道を選ぶことがしばしばある。その理由は、地図がより立体的になることと、もしかして新しい道の方が通りやすく近道の可能性もあるからだ。
慣れ親しんでいる道でなく、知らない道を選ぶことは、われわれの人生にとってあるいはビジネスにとって、とても大切であると思う。昔、知らないことをあえて知りたがる人たちがいた。それは、約2千年前のアテネのエピクロス派やストア派の哲学者たちであった。
彼らはパウロをアレオパゴスの評議会に連れて行って、「君の語っている新しい教えがどんなものか、知らせてもらえまいか。君がなんだか珍しいことをわれわれに聞かせているので、それがなんのことなのか知りたいと思うのだ」と言った(使徒行伝17:19~32)。
彼らは「知られない神」をも拝んでいた人たちだ。それでパウロは復活のキリストのことを述べ伝えたのだが、死人のよみがえりの話をあざ笑い、「ではまた」という態度を取った。彼らがパウロのメッセージを受け入れなかったのは残念だが、新しいことを知ろうといったんは耳を傾けたことは評価したい。
自分が知らない「新しいこと」には三つの可能性がある。それは、自分にとって「益となる」「害になる」「益でも害でもない」のいずれかである。
でもそれを見極める唯一の方法は、その新しい道をちょっと試してみることである。日本の多くの人が福音から遠ざかっているのは、自分にとって益になるかもしれない教えを避けるからだ。
キリスト教を外国の宗教と思い込んでいる人たち(実は神道も仏教も外国から来た宗教であることを認識していない)は、この新しい教えに心を開かない。いわゆる「食わず嫌い」である。
私と家内はビジネスにおいて、「新しいこと」を幾つも試した。知らないことに対する「恐怖感」が鈍感であったからだと思う。その中で見事に失敗したものも数多くある。でもそれらの失敗から多くの新たなる発見をした。失敗する方法を学習したのである。
「失敗する方法」の逆は「成功する方法」となる。もし新しいことを全て避けていたら、「危機管理」を学習することはなかっただろう。「新しいこと」は失敗をもたらせただけではない。素晴らしい実が隠されていることも多かった。
何度も倒産の危機に直面しながら、今も生きながらえているのは、さほど躊躇(ちゅうちょ)しないで「新しい道」を選び取ってきたからだ。
われわれはほとんどのことに関して「無知」である。無知ということは、ほとんどの世界から自らをシャットアウトしていることを意味する。「無知の世界」はすなわち「未知の世界」であり、「未知の世界」に通じる唯一の道は「新しい道」である。
「そんな話は聞いたことが無い」とか「いまさら新しいことを知って何になる」という態度で自分自身を防御し始めると、だんだん「井の中の蛙」になってしまう。そして広い世界に羽ばたく人を見て嫉妬するだけとなる。逆に健全な好奇心は、われわれの世界を広げてくれる。
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