認識が曖昧であると、危険領域が広がってしまう。それゆえ無知な人の行動範囲は制限される。
例えば高圧線の中継塔を囲むフェンスは、素人のために造られている。電力会社のプロは、フェンスの中に侵入するどころか、塔に登って高圧線に直接触れるのだ。危険に対する正確な知識を持っているからだ。
ふぐには毒があるからといって、ふぐそのものを捨ててしまえば、「ふぐ料理」なるものは存在しなくなる。ふぐは、毒の部分のみを取り除けばあとは安全なのだ。
留学カウンセリングをしていると、「米国は危険」という理由でカナダ、ニュージーランドあるいはオーストラリアを希望する人たちが実に大勢いることが分かる。でも何万人もの留学生が米国で毎日、平常心で学んでいる。
米国は他の国に比べて際立って危険であるという判断は、曖昧な認識から来る。例えば1年間の凶悪犯罪発生数が以下の通りであったとしよう。ニュージーランド=4、オーストラリア=20、カナダ=32、米国=285。これらの数字を見ると、やはり米国が断トツに危険な国となる。
でも、これらの数字にゼロを6コつけると、それぞれの国の人口となる。ということは、どの国でも100万人に1人が恐ろしい犯罪を行うのであって、危険度は同じということになる。
人は誰でも罪性を持っているので、人種や国家に関係なく、犯罪率はさほど変わらない。であるなら、米国にのみ「危険な国」のレッテルを貼ることはできない。
冷静な認識とは、どの国にも同じような凶悪犯罪の可能性があるということである。もし絶対に犯罪に巻き込まれたくなければ、人がほとんど住んでいないグリーンランドや南極に行く以外にない。
人間の運命を大きく変えてしまうような大切なことで、人の認識が曖昧になってしまったことがある。エデンの園の中央に、「いのちの木」と「善悪を知る木」の2本があった。
そしてアダムとエバは、その2本の内「善悪を知る木」の実を食べることが禁じられた。でも「いのちの木」の実を食べることは禁じられていなかった。
しかし、エバはヘビに誘惑されたとき、園の中央にある2本の木の認識が曖昧になり、「園の中央にある木の実については、これを取って食べるなと言われている」と答えてしまった(創世記3:3)。やがて食べるべきであった「いのちの木」と食べてはいけない「善悪を知る木」の区別の曖昧さが、全人類の原罪へとつながっていく。
ビジネスにはいろいろな危険性が潜んでいる。チャレンジという言葉そのものにも、ある程度の危険性が暗示されている。でも、もしそれらのチャレンジの中に潜む危険性に対する正確な知識がなければ、「全てが危険→身を引く」という図式になり、全ての可能性を捨ててしまうことになる。
それは危険なふぐそのものを捨ててしまうのと同じことである。われわれは危険性の領域を最小限に抑えるために、それが何であれ正確な認識を持つ必要がある。
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