信仰であれ、学びであれ、スポーツであれ、あるいはビジネスであれ、アドバイスする立場にある者が犯しやすい過ちは、自分の成功パターンをそっくりそのまま他人に押しつけることだ。
確かに良い模範を示すことは重要である。パウロも「ただ私たちを見ならうようにと、身をもってあなたがたに模範を示すためでした」と言っている(Ⅱテサロニケ3:9)。でも細部に至るまでまねさせることは、その人物を駄目にしてしまうことであり、また人格無視にもなる。
私は若い頃、陸上競技でオリンピックを目指したことがある(今の私の体型からは信じ難いに違いないが、郷里では私の記録が40年以上たった今でも破られていないらしい)。私の専門はジャンプ系、すなわち走り高飛び、走り幅跳びそして三段飛びであった。
助走はどこから始めても良いわけだが、幅跳びや三段飛びの場合、自分の走り出す場所に印をつけておく。そしてその位置は選手によって異なる。それは歩幅がそれぞれ違うからだ。
自分の目印の場所から走り出さないと、ファウルになったり、踏み切り板よりずっと手前でジャンプして大損をしたりする。もし歴史的に偉大な記録を残した選手の歩幅が全ての人に強要されたなら、あのカール・ルイスでもその才能を発揮することはできなかっただろう。
神が人に与えた最大の賜物は「自由意思」である。神は人の自由意思をあまりにも尊重したので、罪を犯すことが分かっていてもあえて干渉せず、ストップをかけなかった。また救いを受け入れる行為ですら強要しない。
この「自由意思」が、それぞれの個性を生み出し、また才能を発揮させる。人は皆同じではないことをパウロは次のように言っている。「もし、からだ全体が目であったら、どこで聞くのでしょう。もし、からだ全体が聞くところであったら、どこでかぐのでしょう」(Ⅰコリント12:17)と。
家内と私は、あるビジネスのリーダー格の人物が、どれだけ多くの人を落胆させ、あるいは諦めさせてしまったかを目の当りにしたことがある。その人物は真面目にビジネスに取り組み、それなりの成果を上げていた。決して悪い人ではなかったし、いつも人の成功を願い、熱心にサポートするタイプであった。
でも彼女の唯一の欠点は、自分のやり方以外を決して認めず、他の人に自分流を事細かに押し付けたことであった。彼女は、他人の「自由意思」を無視し、もっと極端に言うと「人格」を無視する自分の言動に気付いていなかった。
人はいくら叱咤激励されても、自由意思と人格を無視されたら、決してリーダーに従いたいとは思わないし、あるいはそのまま従ったとしても成功はしない。
全校(13学年で)でわずか200~300人の学生しかいない宣教師の子弟が通う学校のバスケット部が、東京都を代表する高校のバスケット部との試合で勝つことが何度もあるらしいが、それは「自由意思」の尊重と「励まし」の有無の違いとしか思えない。
◇