教会では、献金は別として「お金がもっと欲しい」といったタイプの話がタブー視される傾向がある。「あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません」(ルカ16:13)という聖書の教えがその背景にあると私は思う。
「お金の話」は断られたり、否定されたり、無視されたり、あるいは非難の対象となるケースは少なくない。「それなら代案を」という発想も薄い。家内と私は、教会員の一人に商売の話を持ちかけたとき、「私を堕落させるつもりか」と罵倒された経験がある。
そんな雰囲気を知っている私は、金銭的に非常に困ったとき、祈祷課題としてお願いしたことはあっても、教会の先生に面と向かって相談したことは一度も無い。先生がそんな俗的な世界にまで下りてきてくれないだろうし、「祈っていますから」という言葉以外には具体的なアドバイスが期待できないからだ。
確かに「金銭欲」と「神に仕える」ことは両立しないだろう。でも「お金が欲しい・必要だ」という気持ちと「金銭欲」は同じではない。聖書の中に、お金が欲しいので、その願望を目立つ形で人々に訴えた人がいる。彼が選んだ場所は宮の入り口(今風に言うと教会の入り口)だった。
彼は生まれつき足が悪くて歩けなかった。そして彼が発した唯一の言葉は「お金をください」であった。キリストの直弟子であったペテロとヨハネもその物乞いの声を聞いた。われわれが学ぶべきは、弟子たちのその時の対応である。
彼らは良きサマリヤ人の話に出てくる祭司のように、知らぬ顔をしてその場を通り過ぎることはしなかった。また、宮の入り口でお金を請う彼の行為を決して非難せず、むしろ哀れんだ。
でもお金はあげなかった。あげなかった理由は彼らもお金を持っていなかったからである。もし彼らに十分なお金があったなら、良きサマリヤ人のようにその物乞いに金銭を提供したに違いない。
実は、使徒の働き3:3~7のこの話はそこで終わってはいない。代案としてペテロが提供したものは、足のなえた男が想像すらしなかった究極的救済策であった。ペテロは「金銀は私にはない。しかし、私にあるものを上げよう。ナザレのイエス・キリストの名によって、歩きなさい」と言って、彼の手を取って立たせた。癒やしの奇跡が起こったのである。
足のなえた男は、そのままの状態では一生経済的に苦しむ運命にあった。働くことができなかったし、宮の入り口に一人で行くことすらできなかったからである。でも癒やされた彼は、一時的な施しではなく、労働という手段で自分の生活を支えていくことが可能になった。
聖書に出てくる数多くの奇跡には、いつも二つの目的がある。一つはそれによって神の力を示すこと、そしてもう一つは、奇跡を必要としている人に対する神の愛の表明である。
われわれは誰かから「お金が欲しい」と相談されたとき、それを非難したり無関心を装ったりするのは望ましくない。われわれがすべきことは、解決策を共に真剣に考え、もし直接的な答えが見いだせないときは、ペテロのように代案を考えてあげることではないだろうか。
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