「さて、過越の祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された。夕食の間のことであった。・・・イエスは、父が万物を自分の手に渡されたことと、ご自分が父から来て父に行くことを知られ、夕食の席から立ち上がって、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。それから、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふき始められた。・・・」(ヨハネ13:1~11)
私たちがそもそも「幸せだ」と言えるのは、御子イエスの十字架の贖(あがな)いと復活により、罪から救われ、永遠の命を頂き、福音に生きることができるからです。イエスの愛がどのようなものか、もう一度あなたの心に刻み込んでください。
この箇所は、一般に「最後の晩餐」と呼ばれる場面が記されています。ヨハネ以外の三福音書では、最後の晩餐の中での最初の聖餐式が記されています。ヨハネは、その中で「洗足」に着目し、その場面をしっかりと書き記しました。翌日イエスは十字架にかけられる、という緊迫感が漂う中での出来事だったのです。
ヨハネはイエスの愛を記したかったのです。死ぬことを悟られたイエスはご自身の愛をとことん、徹底的に最後の瞬間まで弟子たちに表されました(13:1)。そのイエスの愛を3点に絞って見ていきましょう。
1. 奴隷になるまでして愛してくださった
イエスは「奴隷」にまでなって私たちのことを愛してくださるのです(4、5)。普通の人がやりたくない忌み嫌われたことをするのが「奴隷」です。イエスは食事中に弟子たちの足元にひざまずき、彼らの足を洗われたのです。
客人の足を洗うことは、当時の奴隷の仕事でした。イエスは私たちの「奴隷」となり、罪の犠牲のいけにえにまでなって私たちに仕えられたのです。このイエスの愛を忘れてはいけません。
2. 徹底的に関わろうとされる主の愛
足を洗うことによってイエスが表されたのは、弟子たち、私たちとの強い結びつきです。今の時代、日本で幸福度が上がらないのは、寂しい人が増えたからです。主が求めておられるのは私たちとの関わり、何があっても切れない絆、私たちの死を通り越して天国での永遠の命にまで私たちを引き寄せ愛してくださるつながりです。
そんなまことのぶどうの木であるイエスと私たちがつながっていられるのは、イエスが一方的に私たちを引き寄せ、愛し救い、そして主となってくださったからです。命を捨ててまで私たちを愛し一人一人の人生に寄り添ってくださるイエスこそが「主」であると受け入れ、感謝しましょう。
3. 私たちの理解力を超えた愛
キリストは、私たちの理解力をはるかに超えた愛で私たちを救ってくださったのです(6、7)。イエスが何度話されても、弟子たちには受難のことを理解することはできませんでした。
けれど、十字架、復活、聖霊降臨を通し、キリストが「救い主(ぬし)」であったことが弟子たちに理解できたのでした。罪の自覚さえなく悔い改めのできなかった私たちのために、キリストは自ら死んでくださいました。そんなキリストの十字架を表す「洗足」、弟子たちの足を洗われたイエスでした。
ペテロたちだけでなく、キリストの愛は私たちのためにも注がれました。イエスを心から感謝して歩んでまいりましょう。
◇