信仰、スポーツ、あるいはビジネスにおいて「修行」は必要なのだろうか?「修行」という言葉には「精神を鍛える」という意味があり、それは「難行苦行」や「でっち奉公的下働き」の概念にもつながっていく。
真実・極意はもっと単純なはずである。私はパスワードからその教訓を学んだ。インターネットをしていると、頻繁にパスワードの変更が促される。
単純な英数字の組み合わせが、全財産あるいは重要機密情報の扉をいとも簡単に開けてしまうからだ。最も大切な事柄は、本当は非常に単純ではないだろうか?
世の多くの宗教では、悟りを得るための難行苦行が伴ったり、同じ言葉を何千・何万回も唱えることが要求されたりする。もし悟りを得るための、あるいは真理に到達するための行為をパスワードとするなら、それらのパスワードは百科事典のデータより長いものとなる。
ヨハネの福音書8:32は「真理はあなたがたを自由にします」と言っている。もし真理を知るためのパスワードがそんなに複雑であるなら、真理はわれわれを不自由にするはずである。
ピリポが師匠のキリストに「私たちに父(=神)を見せてください」と言ったとき、キリストは「わたしを見た者は、父を見たのです」と答えた(ヨハネの福音書14:8、9)。
これは、キリスト自身が真理にたどり着くためのパスワードであることを意味する。実際彼は「わたしは道であり、真理であり、命である」と言明している。
目標に到達するための、あるいは悟りを得るための「修行」の背景には、そんなに簡単に目標地点に到達できるはずがないという概念がある。そして必然的に「師弟関係」が重要になる。
「弟子」には精神的鍛錬が求められる。そして師匠は自分の習得した技術や真理を弟子に気楽に教えないばかりか、そこに到達するのがいかに大変であるかを強調する。
「修行」は「しつけ」の領域に属するものであって、直接的な真理への道ではない。「しつけ」は子どもの時に家庭教育の中で行われるべきものであり、大人になってから技術を習得するためや真理を知るための必要条件ではない。
精神的に健全に育った人は、例えばスポーツの世界に入ったなら、すぐに体力と技術を身に付ける練習をすべきであり、難行苦行的しごきを必要としない。
ビジネスのノウハウも、トイレ掃除によって伝達されるものでなく、適切なアドバイスによってのみ伝わる。トイレ掃除などは役割分担の問題であり、目標到達とは別問題である。
信仰の世界でも、先輩がより高いステージにいるとは限らない。修行が信仰のレベルを高めるわけではないから。
事実「先の者が後になり後の者が先になる」ことが頻繁に起こる。真理を知るためのパスワードは単純で、それを信じ受け入れた者のみが、後先関係なく真理に到達することができる。
「幼子のようになれ」というキリストの教えは、「修行」の概念を排除する。われわれは最も大切なことを、複雑にしてはいけないと思う。われわれに必要なのは、それを知るパスワードである。
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