われわれは、神の祝福を霊的祝福に限定して考える傾向がある。富に対する後ろめたさがあるからだと思う。「富=悪」と考える人たちさえいる。でも聖書をよく読むと、祝福が精神的あるいは霊的領域に限られているとはどうしても思えない。
聖書には「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」という神の呼び方が数限りなく出てくる。それはアブラハムの子孫を大いなる国民とするという神の約束があり、またイエス・キリスト自身も、アブラハムの系図の中で受肉されたからだ。そういう意味で、アブラハムの祝福、イサクの祝福、そしてヤコブの祝福には特別なものがあった。
でももしわれわれが旧約聖書の記述を史実として読むなら、神の祝福が霊的祝福に限られていないことが分かる。というより経済的祝福そのものであったことが明白である。
例えば創世記24:35で、アブラハムの僕は「主がわたしの主人を大層祝福され、羊や牛の群れ、金銀、男女の奴隷、らくだやろばなどをお与えになったので、主人は裕福になりました」と言っている。
ここでは「神の祝福」→「裕福」という構図になっている。アブラハムの次に神の祝福を受けたイサクに関し、「アブラハムは自分の全財産をイサクに与えた」(創世記25:5)と記述されている。ここでもイサクの祝福は「富」であった。
イサクの次に祝福を受けるべき立場にあったのはその息子ヤコブであったが、イサクは、ヤコブを祝福して「ああ、わたしの子の香りは 主が祝福された野の香りのようだ。どうか、神が 天の露と地の産み出す豊かなもの 穀物とぶどう酒を お前に与えてくださるように」と言った(創世記27:27、28)。主が祝福されたヤコブも、その祝福の中身は「富」であった。
国の財産は土地である。であるからこそ、領土問題は戦争の危機をはらむ問題となる。わが国日本も、ロシア、中国そして韓国との間で領土問題を抱えていて、そんなに簡単に解決しそうにもない。
もちろん土地は個人にとっても大きな財産となっている。イサクがヤコブを祝福したとき、「どうか、アブラハムの祝福がお前とその子孫に及び、神がアブラハムに与えられた土地、お前が寄留しているこの土地を受け継ぐことができるように」とも言っている(創世記28:1~5)。
このように神の祝福が土地の所有権にまで及んでいる。この土地所有権争いは、今なおイスラエルとパレスチナの間で繰り広げられている。
以上はほんの1例にすぎないが、「神の祝福=富」を示す聖書の記事は数限りない。そしてわれわれはその「富」を霊的にだけ解釈することは難しい。
もし聖書の記事を史実として認めなければ、キリストの受肉、死、復活も比喩的解釈になってしまい、そこにはもはや救いは存在しなくなる。
われわれはいつごろから「富」を神の祝福から切り離してしまったのだろうか? おそらく「貪欲」と「富」の混同が、「富=悪」の概念を生み出したに違いない。
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