立派なクリスチャンの中に、崇高な話しかしない人がいる。そのような人と2人きりになったとき、かなり俗的な私は会話が途切れてしまい、気まずい思いになる。ある教会で、牧師がメッセージの中でしばしば俗的な内容を話題にするので、それに抗議した会員がいた。「月から土まで俗世界で生きていて疲れ果てているのに、聖なる日曜日まで俗的話題を聞かされるのはうんざりだ」というのがその言い分であった。
私は時々「聖とは何か?俗とは何か?」と考える。神は週の7日目を安息の日、仕事から解放される日と定めたが、あとの6日が汚れた日であるとは聖書は言っていない。生活のためにあくせく働く週日も、神が造られた日であることに変わりはない。
「聖書」には「聖」という漢字が使われており、英語の"The Holy Bible" にも "holy"が使われている。でもその聖書自体を読むと、特に旧約聖書を読むとその内容のほとんどが俗世界のテーマであることに気付く。
アブラハム、イサク、ヤコブの生涯を見ても、俗的話ばかりである。妻が美人過ぎて自分の命が危ないから妹とうそをついたり、女奴隷に何人もの子どもを産ませたり、財産の分配論争があったり、偏愛があったり、人をだましたりで、「聖」とはかけ離れた内容がずっしり詰まっている。
なぜ聖書はそんな俗的内容ばかり記録したのだろうか? それは実生活、すなわち俗生活の中において人間の真の姿を直視し、罪と神との関わり合いを明確にするためであったと思う。俗世界とは現実の世界のことで、人の生きる世界、経済活動が行われる世界、人間関係を持つ世界のことで、俗世界に属していない人は1人も存在しない。
キリストの2戒は、「聖」と「俗」を見事に調和させた教えである。第1戒の「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」は、縦の関係、すなわち人と神の関係についてであり、第2戒の「隣人を自分のように愛しなさい」は、横の関係、すなわち人と人の関係に関する教えである(マタイによる福音書22:37、39)。
そして、人は現実の世界に生きているので、第2戒は俗世界で実行されるべきものである。でも「聖い人」にありがちな傾向は、第1戒にのみ心が奪われ、その話題のみが聖く、愛が表現されるべき舞台(俗生活)が、低次元のものとして捉えられることだ。
キリストの2戒をバランス良く理解し、それを実行した典型例は、マザー・テレサであったと思う。彼女ほど俗世界で愛を表現した人が他にいたであろうか。彼女は最初、バチカンからもその働きが低俗であると思われた。
でも彼女は最も貧しい人たちに、キリストの愛を示した。というより彼らに対する行為が、キリストに仕える態度そのものであった。「貧困」「病」「尊厳死」、そしてそれらに対して何をすべきかが、彼女の関心事、話題の中心であった。それこそが「聖」と「俗」の壁を取り除く姿勢ではないだろうか。
◇