日本基督教学会第63回学術大会が9月11、12の両日、桜美林大学多摩アカデミーヒルズ(東京都多摩市)で開催された。「キリスト教と戦後70年」を全体のテーマに、初日午後には旧約聖書学者の月本昭男氏(立教大学名誉教授・上智大学特任教授)が、120人を超える参加者を前に、「戦後70年―聖書翻訳および聖書学の視点から―」と題して主題講演を行った。
安倍首相の戦後70年談話 戦後の天皇制とキリスト教
月本氏は初め、安倍晋三首相の戦後70年談話に言及。安倍首相が「あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を負わせてはなりません」と述べたことについて、月本氏は「驚きを禁じ得なかった。本来ならば首相は次のように訴えるべきではなかったのか? 『あの戦争には責任のない私たちの子や孫、そして先の世代の子どもたちにも、私たちは戦争の悲劇をしっかりと伝える責務を負っている』」と述べた。そして、「安倍首相の言葉は逆に、私たちはもはやあの戦争の悲劇を将来の世代に伝えなくてもよいと語っているかのように私の耳には響いた」と言い、当時の西ドイツで国民に戦争責任の直視を訴え、今年1月に他界したリヒャルト・フォン・ワイツゼッカー元独大統領の演説とはあまりにもかけ離れていたと指摘した。
月本氏はまた、戦後の天皇制とキリスト教について問題提起をし、戦後20年ほどの間、宮内庁のトップはキリスト教徒で占められていたと指摘。「戦時中に大政翼賛へと取り込まれ、太平洋戦争の勝利を祈願し、戦争に加担していった日本のキリスト教が、戦後、戦時下でのそうした姿勢と行動をしっかり総括できなかった。そのことの理由の一端が、こうした皇室によるキリスト教懐柔政策にあったのではないか」と問い掛けた。また、戦後70年の間、日本の軍国主義下におけるキリスト教とキリスト教神学に関する批判的検証がほとんどなされてこなかったと指摘した。
戦後70年間の聖書翻訳の歩み
その後、月本氏は旧約聖書の翻訳に限定して具体的に戦後70年を振り返った。スイスの聖書神学者、ワルター・アイヒロットの『旧約聖書神学』3巻の契約思想から、ドイツの旧約聖書学者であるゲルハルト・フォン・ラートの『旧約聖書神学 古代イスラエルの歴史現象の神学』1巻の救済史へ、そして1970年代後半から旧約聖書学にいくつもの新しい波が生じ、社会史的視点からの研究、古代オリエント学・考古学からの寄与、生態学的な視座、フェミニズムからの視座などが挙げられ、それにポストモダン、ポストコロニアルなどの主張が続いていくと説明した。そして、旧約聖書学の方法論的には、伝承史に代わって編集史が基本に据えられることになったと月本氏は付け加えた。
その上で月本氏は、「私は、こうした視座に立つ研究を目の当たりにし、驚くばかりであり、そして十分とは言えないが数多くのことを学ばされ、それが旧約聖書の翻訳と深く関わるのだということに気付かされてきた」と語った。
その後、月本氏は先に述べたいくつかの視座を考慮しながら、日本における聖書翻訳(文語訳、口語訳、バルバロ訳、新改訳、新共同訳、関根正雄訳教文館版、岩波委員会訳、フランシスコ会訳合本版)の訳例を掲げて問題点を指摘した。
その中で月本氏は、社会史的観点から、エレミヤ書に特色的な表現「小さい者から大きい者にいたるまで」(エレミヤ8:10、口語訳)に、新改訳が「身分」という言葉を補って訳し、それを新共同訳とフランシスコ会訳が踏襲したと指摘。「戦後、新しい憲法の下で、それまであった貴族制などの身分制度は撤廃された。ところが、あろうことか聖書の翻訳にこの身分という言葉が復活しているのである。このことに驚かされるのは私だけではないだろう」と語った。
月本氏は、第二次世界大戦後、エキュメニズム運動が広がりを見せ、その中で聖書翻訳事業が推進されてきたことに言及し、「新共同訳はその賜物であった」と評価した。一方、「今後の聖書翻訳は古代文化史的事象をより正確に知るために、キリスト教の柵を越え出る必要もあると思う」と述べ、「植物や動物をはじめとする博物史的な知識も必要とされる」と付け加えた。
聖書における人間と自然の関係をどう読み解くか
月本氏は旧約聖書学の生態学的な視座に関連して、関東大震災や阪神・淡路大震災、また東日本大震災と福島第一原発事故に言及した。これらは、日本人に大きな衝撃を与えただけではなく、キリスト教信仰にも、自然災害や人災の問題といったさまざまな問いを投げ掛けたと語った。
月本氏は東日本大震災と創世記の洪水物語に言及し、「21世紀を迎えた人類が洪水物語をどのように読み、そこからどのような思想・神学をくみ取り得るのか」と問い掛けた。そして、「戦後、人類が地球規模で起こる自然破壊、そして温暖化による気候変動を前にしている。日本では大地震による大津波を経験し、そして原発の問題も抱えている。そうした中で、聖書における人間と自然の関係をいかに読み解くか」と課題を提起した。
また、「キリスト教の人間中心主義こそ地球規模の自然破壊の思想的元凶だ」(梅原猛)という批判や、「キリスト教的一神教に対して、調和を旨とする日本の伝統的アニミズム的自然観を再評価する」(比較思想学会)という論調に対する応答を、「日本の優れたキリスト教神学者の方々は正面からほとんどしてこなかったのではないか。その怠慢さを残念に思う」と月本氏は語った。
フェミニズム的観点からの聖書の読み直し
また、フェミニズムが提起した問題を聖書翻訳はいかに受け止めるかという点について、月本氏は、1980年代以降のフェミニズム的観点からの聖書の読み直しに言及し、「私はそれらから多くを学んだ」と述べた上で、新共同訳の創世記3章16節にある「はらみの苦しみ」「男を求め」という訳語を批判した。
その上で月本氏は、「聖書の多くの部分は、男が記し、男の視点で読まれ、解釈されてきた。戦後ほぼ半世紀がたち、ようやく女性の視点から読み直す作業が始まった。しかし、新共同訳にそうした視座は生かされなかった。今後も引き続き女性の視座から従来の聖書解釈批判がなされるだろう。キリスト教学のあらゆる分野で、女性の視座から批判的再検討が推し進められていくはずである。保守的な教会が少なくないなら、少なくとも日本基督教学会が学会としてこれをしっかりとサポートし、受け止めていかなければならないのではないかと思わされるのである」と語った。
聖書翻訳における日本的なもの
最後に月本氏は、聖書翻訳における日本的なものとして、コヘレトの言葉(伝道の書)1章2節にある「空の空」(口語訳)と「なんという空しさ」(新共同訳)という訳語に言及した。岩波委員会訳で同書の訳を担当した月本氏は、前者が老荘思想や仏教思想、東洋思想を想起させ、後者は著者の情感が伴う、多分に感傷的な表白だと述べ、唐木順三著『無常』(ちくま学芸文庫、1998年)や文芸評論家の亀井勝一郎の言葉を引用。「コヘレトの開いた世界観の表明なのか、それともコヘレトの感情表現なのか、そう私に問わしめることになった」と述べ、結論として「空の空」という訳語を採用したと語った。
その上で月本氏は、「日本的感性自体はむげに否定すべきものではない。しかし、日本とは異なる風土、異なる文化の中で生まれた聖書、そしてそこで育まれたキリスト教思想を学ぶ私たちは、少なくともそのことをしっかりと自覚しておかねばならない。そのことだけは確かであろうと思う次第である」と述べ、講演を結んだ。
■ 日本基督教学会第63回学術大会: (1)(2)