日本基督教学会第63回学術大会の2日目(9月12日)午後は、「キリスト教と戦後70年」をテーマに、徐正敏(ソ・ジョンミン、明治学院大学教授)、佐藤千歳(北海商科大学准教授)、小林望(新教出版社代表取締役)の3氏をパネリストに迎え、シンポジウムが行われた。
徐正敏氏「キリスト教と戦後70年―韓国キリスト教との関係と比較―」
徐氏は、戦争に関する日本のキリスト教の声明や戦責告白を整理し、日本のキリスト教が戦後どういう実践をしたか、また戦後70年の韓国のキリスト教の変化、そして両者の違いを取り上げた。
徐氏は、戦後日本のキリスト教による声明として一番歴史的な意味があるのは、1967年に日本基督教団の鈴木正久議長(当時)が発表した「第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白」だとし、それは「日本のキリスト教が戦後になって本当に変化したことを示す一番重要なポイント」だと述べた。そして、「戦後日本のキリスト教は、マイノリティーに注目した社会福音的な実践の神学が変化を見せた」と指摘した。
一方、徐氏は、韓国のキリスト教の戦後現代史を「分断と戦争」の歴史と捉え、李承晩(イ・スンマン)政権(1960年)に対する民主化革命、朴正熙(パク・チョンヒ)軍事クーデター(61年)、朴正熙暗殺(79年)、全斗煥(チョン・ドゥファン)軍事政権(80年)の開始に言及。その上で、韓国のキリスト教のうち10パーセントのリベラルな人たちが民主化運動に参加し、韓国の戦後のキリスト教で重要な役割を担ったと評価した。
またその後、80年代に入ると、それらの人たちが南北統一運動にも積極的に参加し、澤正彦牧師、池明観(ジ・ミョンクワン)氏、朴炯圭(パク・ヒョンギュ)牧師らが協力したことは、「日韓関係の一番素晴らしいモデル」だと高く評価した。
一方、徐氏は、韓国のキリスト教の多数派と「資本主義」に関する特徴として、保守的な「福音派」の政治的影響力の拡大と形成(2007年~現在)を挙げた。また、教会成長主義の流行、現世利益信仰、シャーマニズム的宗教文化、異端、新宗教的な宗教カリスマなどの事象も取り上げ、「韓国の主流教会に極端な資本主義・拝金主義が蔓延して、華聖殿建築、牧師たちの成功主義が問題になった。韓国の教会の世界宣教もいわゆる『新帝国主義』的宣教方法論、移植的宣教模型の問題点があらわになった」と語った。
さらに、戦後における日本のキリスト教と韓国のキリスト教(多数派)を単純化して比較。日本に比べて韓国では、リバイバル運動、現世利益信仰(祝福信仰)、教会成長主義、伝道への熱情がある一方、懺悔(ざんげ)と告白のプロセス、社会福音的責任感、キリスト者としての歴史認識、宣教神学に対する批判的反省などが見られないと指摘した。
佐藤千歳氏「高揚するナショナリズムと日中教会の対話の可能性」
佐藤氏は初め、中国の教会に対する最近の迫害について言及。昨年2月から続く浙江省における十字架の撤去は、7月の時点でプロテスタント1200、カトリック500の合計1700教会にも及び、佐藤氏は「これほど大規模なキリスト教に対する迫害は、文化大革命が終わってからほとんど例がないのではないか」と語った。
佐藤氏によると、戦後70年の今年、中国のカトリック教会では日中戦争時に中国人の住民を保護した教会関係者の歴史を掘り起こし、「カトリック教会も愛国の闘いを支援した」ことを示そうとしたという。また、北京の大規模なプロテスタント教会では、抗日戦争勝利70周年を記念した集団結婚式が行われ、対日戦勝記念日(9月3日)の直前の日曜日であった8月30日には、中国全土のプロテスタント教会で戦勝記念と平和を祈る礼拝が行われたという。
一方、佐藤氏は、浙江省のキリスト教迫害と、教会による抗日戦争勝利の記念は、全く関係ない、あるいは逆の動きに見えるが、中国におけるナショナリズムの高まりという共通した背景があると語った。佐藤氏によると、中国の教会は公認・非公認を問わず、ナショナリズムを肯定的に捉えている。しかし、それにもかかわらず、反中国的な外来宗教(洋教)という烙印(らくいん)を繰り返し押されてきたのが中国のキリスト教だという。
中国では、1945年は歴史の一つの区切りに過ぎず、アヘン戦争(1840~42年)での敗北から、帝国主義列強による国土の半植民地化、抗日戦争の勝利(1945年)、そして紆余曲折を経て今のような経済大国になって強国としての復権を果たしたという、この170年余りが大きな流れの中で語られるという。そして、この中華復興の物語の中で、キリスト教は英米による植民地化の手先であり、中国に侵入した外来宗教と常に位置付けられてきたと佐藤氏は説明した。
これに対し、中国の教会は存続をかけて外来宗教という烙印を消し去ろうと努力し、西欧の宣教団体から自立して中国社会の復興に貢献する運動を展開してきた。こうした中国の教会に日本の教会がどのように関われるのか。佐藤氏は、中国の教会では聖書解釈の教師が圧倒的に不足していること、また2008年の四川大地震以来、教会が社会活動に非常に意欲的になったが、具体的な活動の進め方が分からず、日本の教会やNPOの事例を参考にしたいと話していることを語り、日中教会の交流の糸口として挙げた。
一方、日本の教会としては、さまざまな迫害・困難の中で、戦後70年の間に信者が400万人から8000万人と20倍に増えた中国教会の生命力に触れることは、「非常に得がたい経験になる」と語った。
小林望氏「キリスト教出版から見た戦後70年のキリスト教」
小林氏はまず、キリスト教出版の量的な推移を眺め、この市場が今や衰亡の危機に瀕している事態を客観的に確認した。一方、「(教会の)教師数も信徒数も現在は減少傾向に転じている。しかし、キリスト教の出版市場の半減どころではない著しい売り上げの減少に対応するような顕著な減少は見られない」と分析し、「売り上げ減少の主要な原因は、市場の量的な現象ではなく、質的な変化だと考えられる」と指摘した。
小林氏はこの「質的な変化」を考察する上で、日本基督教団信濃町教会の創立者である高倉徳太郎(1885~1934)が私淑した英神学者ピーター・フォーサイス(1848~1921)の「神学なきところに教会なし」という言葉に言及。高倉も、教会を教会たらしめる福音、そしてその福音を系統的・知的に表現した神学がなければ教会は健全でないと断じていたことを紹介した。小林氏は、こうした高倉の鋭いものの言い方が当時の日本の教会に一定の影響を与えたのではないかと言い、それが戦後も続き、神学書を熱心に読む気風を教会内につくり出したのではないかと述べた。
そして小林氏は、教会の神学書離れの原因を考える上で、1970年に東京神学大学全共闘が発行した小冊子のタイトル「死せる言葉の終焉(しゅうえん)」が頭に浮かぶと語った。
小林氏は、「死せる言葉」とは当時の東京神学大教授会、特に北森嘉蔵教授によって代表される信仰義認論を指す一方、さらに広く神学というものの営みそのものを指していたと説明。同大の碑文谷創(ひもんや・はじめ)全共闘議長が、「我々の課題は国家幻想とキリスト教的イデオロギーという特殊な宗教幻想の二重の疎外にあった自己の止揚を共同的に推し進めていくこと(中略)この自らの止揚を抜きにして、神学的主体の確立を目指すことは、観念主義的に自らを純化すること以外の何ものでもない」と述べていたことを取り上げた。その上で小林氏は、このような全共闘の論理が、「神学なきところに教会なし」という高倉らの言葉を自明視していた人々の神学観や教会観を十分に揺さぶるものであったと述べた。
一方、小林氏は、教団紛争後の70年代には、キリスト教書の売り上げはむしろ大きく伸びたとし、全共闘の神学批判により、神学の権威が一挙に崩壊したとか、教会内に神学離れや神学書離れが始まったとはいえないと指摘。逆にある種の神学的覚醒を促した面もあると語った。しかし、それも20年ほどだったと言い、その後は、21世紀に入り佐藤優氏という「意外な応援」も現れたが、キリスト教出版にとって長い下り坂が続いていると話した。
最後に小林氏は、「教会で語られる言葉がそのまま世界に届く言葉になるような神学が、私たちの内から出てくることを本当に希望している」と熱望。そのためには、教団紛争時にあった熱気や活気、問題提起に接し、「神学批判の一面をもう一度思い出す必要があるのではないか」と語った。
■ 日本基督教学会第63回学術大会: (1)(2)