クリスマスはいつ来るのか?
内村はまた、「クリスマスはいつ来るのか」と問い掛ける内容の文章を書いているという。
平和の君が世に臨みたまいしというこの時に、私どもは旧怨はすべてこれを私どもの心より焼き払わんと努めまするが、さりとてまたこの世はやはり涙の谷でありまして、悲哀をまじえない歓喜とてはない所であると思いますれば、クリスマスの喜楽(たのしみ)の中にも言い尽くされる悲歎(なげき)があります。
以上(これ)は悲哀の半面であります。しかし私どもの歓喜の半面を言いますならば、それは言い尽くされるものではありません。キリストの降世と生涯と死とによりまして、死とは私どもには無きものとなりました。死は私どもには「つらい、うれしい事」であります。(中略)世はこの信仰を迷信であると言います。しかし、この「迷信」をいだく私どもは、世の人が死者についていだく断腸の念(おもい)をいだきません。私どもの涙はイエスの奇跡力によって真珠と化せられました。私どもは死者について思うて涙をこぼしますが、しかしその涙は希望と感謝の涙であります。(内村鑑三「クリスマス述懐」1903年)
内村はここで、価値を根本的に逆転することができる、クリスマスとはそういう日である、と書いていると若松氏は言う。
「ならば一番恨んでいるやつを赦(ゆる)さないといけない。一番悲しいことが一番喜びに変わる日なのだから。われわれはいつクリスマスを自分に呼び込むことができるのか? 12月25日である必要は全くない。平和とはクリスマスが日々続くということなんです。だから内村の言うキリストの再臨とは、キリストが再び生まれる、自分の心の中で大いなる赦しが生まれる、という奇跡が起きるということ。それは『平和』とは別の問題ではないと言っている。赦せない人間が平和なんて実現しようがない。国家の問題は違うというのは嘘ではないだろうか」
太宰治と内村鑑三
最後に若松氏は太宰治についても新しい見方を示した。
内村は厳しい人で、文学は人を堕落させるからだめだといつも悪口を言っていたため、志賀直哉や正宗白鳥など多くの作家は離れていったが、太宰は内村を熱心に読み込んでいたという。
内村鑑三の随筆集だけは、一週間ぐらい私の枕もとから消えずにいた。(中略)私はこの本にひきずり廻されたことを告白する。ひとつには、「トルストイの聖書」への反感も手伝って、いよいよ、この内村鑑三の信仰の書にまいってしまった。(中略)ああ、言葉のむなしさ。饒舌(じょうぜつ)への困惑。いちいち、君のいうとおりだ。だまっていておくれ。そうとも、天の配慮を信じているのだ。御国の来らむことを。(嘘から出たまこと。やけくそから出た信仰。)」(太宰治「碧眼托鉢」1936年)
司馬遼太郎はこのことに気付き、太宰のことを「東北の巨人たち」という講演録でこう書いている。
太宰治の小説を読むようになったのは、50歳なかばからです。(中略)得た結論は、彼は破滅型でも、自堕落でもないということでした。太宰治の精神、文学がもっているたった一つの長所を挙げよといわれれば、聖なるものへのあこがれという一語に尽きるわけです。あの人は『聖書』が好きでした。クリスチャンではありません。ただ座右の書として置いていた。素朴に清らかなものとしてとらえていた。『聖書』の文体が好きでした。(中略)破滅型な作品でさえ、破滅していく主人公の心には、実に聖なるものへのあこがれがあらわれています」(司馬遼太郎「東北の巨人たち」1987年『司馬遼太郎全講演3』)
若松氏は、「太宰論は山ほどあるが、これは最も優れたものであり、批評家・司馬遼太郎のすさまじさを示している。太宰は『自分は内村の本を読んで、火の洗礼を受けた』と書いている。内村の文章と思想は実は全部、太宰に流れ込んでいる。内村の聖性と、太宰の聖性とは非常に近いものだったということが、われわれにとって誇り高い先人の証しなのではないか」と述べた。
若松氏は最後に、「自分の魂を揺り動かすものは自分で書くしかない。いい文章に感動するだけではだめ。だから皆さんも自分で言葉を書いてください」と締めくくった。