昨年の台風で延期となっていた第36回内村鑑三研究会(『内村鑑三研究』編集委員会主催)が15日、東京都目黒区の今井館聖書講堂で開かれ、関係者ら約80人が参加した。東京神学大学の近藤勝彦前学長、東北大学の柳父圀近(やぎう・くにちか)名誉教授が「内村鑑三の信仰とナショナリズム」をテーマに、それぞれの研究を報告した。
近藤氏は、「内村鑑三についての二つの疑問―日本人とキリスト教をめぐって」と題して報告し、内村の「二つのJ」の表現と「日本的キリスト教」の主張について、それぞれの問題点を指摘した。
「二つのJ」については、内村の墓碑銘「I for Japan:Japan for the World;The World for Christ;And All for God.」と比較し、「価値的序列でなく、二つの価値、二つの忠誠対象が『並列』に位置していることを表している」と主張。「このことは、内村の中に『イエス・キリスト』と『日本』をめぐって一種落ち着きのない状態、揺れる面があったと考えられるのではないか」と指摘し、「この点において揺れがあるとしたら、内村は自己のアイデンティティの根本に揺れを抱えていたことになる」などと論じた。
「日本的キリスト教」の主張については、「キリスト教の原理と国民的発展との相互作用や融合と言うと、それはすでに『純粋の基督教』の主張ではなくなっているのではないか」と指摘し、「一方の『純粋の基督教』や『純福音』の主張と、他方の国民的発展との相互作用や融合におけるキリスト教の主張との間に、ある意味での揺れがあるように思われる」と話した。
柳父氏は、「内村鑑三における信仰とナショナリズム―天皇制などをめぐって」と題して報告し、「二つのJ」に生きようとした内村の中で信仰とナショナリズムの関係はどうなっていたか、天皇制の問題に触れつつ論じた。
内村のナショナリズムについては、「なかなか簡単でない内容を持っている」とし、▽札幌時代、▽アメリカ時代、▽不敬事件と日清戦争の時期、▽日清戦争後から日露戦争前後まで、▽第一次大戦とその後、の5つの時期に分け、順を追って検討した。
「(内村のナショナリズムの)重要な特徴とその理論は、若き日のアメリカ体験の中で形成された」と主張。エレミヤ書の熟読による「世界史の神」の発見、アーマスト大学のアンソン・モース教授による歴史学講義での、「人類の歴史は『自由』の継起的な発達史」と見るヘーゲル的な歴史観との出会いを通して、「人類史的『天職』を与えられている『あるべき日本』への思い、つまり、『信仰的ナショナリズム』ないし『哲理的ナショナリズム』とでも呼ぶべき思想を得た」と語った。
内村は、アーマスト大学のシーリー総長の指導によって本格的な回心を経験したとほぼ同時に、日本人同胞への福音伝道の熱意が湧き起ってきたことを告白している。柳父氏は、「この体験は、彼の生涯の根本思想を形成する経験だった」とし、「同胞への伝道というモチーフは、内村のネーションへの愛の性格、中年以降いっそう鮮明になる、同胞への伝道とそれに根ざす、日本人の心に浸透しつくす日本的なキリスト教の形成への自分の使命という思想の形成とも、深い関わりを持つものだった」と語った。
近藤氏の指摘する「『イエス・キリスト』と『日本』をめぐる揺れ」については、「『日本』は彼の『愛人』ではありえても、『救い主』ではなかった」と述べ、自己のアイデンティティの根本に揺れはなかったとの見解を示した。「不敬事件」についても、「もし(救い主としてのイエス・キリストと出会う)回心の経験がなかったとしたら、最後の瞬間の決断をうながした絶対的な理由が、内村の魂のうちには欠けることになっていたのではないか」と話した。
内村は、「戦争も理性の手段たりうる」と見るヘーゲル流の考えに立ち、日清戦争を「『新にして小なる日本』に、神ないし『世界史の哲理』によって与えられた『天職』」と一時は肯定する。しかし、結局は利益だけを追求し、朝鮮民族と朝鮮半島はその犠牲になったと判断した内村は、ヘーゲル風の「哲理的ナショナリズム」の未熟さを猛反省することになる。
「『あるべき日本』を求める彼の『哲理的歴史観』は維持し、現在の日本を批判する預言者的な『非愛国的愛国心』を強めた」。その後は、薩長「藩閥政府」と、財閥化する政商・軍需資本、寄生地主の手動する「国家主義」体制を痛烈に批判。日露戦争では「非戦論」に転じ、好戦的なナショナリズムを批判した。「第一次大戦は、内村の『人類の文明の進歩』に対する信頼を打ち砕いた。ここに彼は、ヘーゲル風の『歴史哲学』の思弁を棄却し、決定的に『再臨信仰』に立った」。
天皇制については、「内村は、天皇の神格化が日本人の内面から国家を超越する良心を失わせてしまい、あらゆるものを腐敗させているとまで厳しく批判している」とし、「不敬事件以来の内村の一貫した理論」と語った。一方で、最晩年となる昭和3年(1928年)の資料では、皇室を「絶対的家父長制」と言い、天皇を「国父」と定義した事実を取り上げ、「その後の日本の急速なファシズム化が予感できないほどに、まだ昭和3年は大正デモクラシーの小春日和的な空気が残っていて、彼も油断していたということかもしれない」としつつも、「今から見れば、認識が甘すぎたことも否めない」と指摘した。