本書は、内村鑑三著・鈴木俊郎訳『余は如何(いか)にして基督信徒となりし乎(か)』(岩波文庫、1939年)で知られる内村の英文「How I Became a Christian」(1893年)の現代語訳。「いま、息をしている言葉で、もういちど古典を」という光文社の古典新訳文庫の本である。帯のフレーズ「内村くん、はじめて『宗教』に遭遇し、大いに悩む!! 札幌農学校からアメリカ留学までの日々」は、本書の読みやすさを端的に表していると言えよう。
英語の原書は、教文館からオンデマンド版で出ている『内村鑑三英文著作全集 Vo.1』に収録されている。
旧仮名遣いで文語体の鈴木訳と比べて、本書はとにかく分かりやすい。聖書からの引用部分も文語訳ではなく、主に新共同訳である。そもそも、元の英文もさほど文語的ではなく平易な英文である。本書のこの訳なら、内村が100年以上も前の遠い存在ではなく、まるでいま同時代を生きている青年が書いた体験記のように親しみやすいだろう。それ故、同じように悩み多き今の若者が読んでも、読みやすいのではないか。
ところで、『余は如何にして基督信徒となりし乎』の訳者である鈴木氏は内村の弟子であるのに対し、本書の訳者である河野純治氏はノンフィクション系の翻訳者であるという。また、解説者の橋爪大三郎氏は日本福音ルーテル教会の信徒で、『ふしぎなキリスト教』(講談社現代新書、2011年)の共著者でもある、東京工業大学名誉教授の社会学者。
2人とも過去に内村に関する著書や訳書といった業績はない。ただ、光文社のウェブサイトにある河野氏へのインタビュー記事には、河野氏がいかにしてこの本を翻訳したのか、そしていかにして翻訳者になったのかが書かれている。本書のあとがきや訳注・補足と併せて見ても、かなり綿密な調査を行って翻訳されたことがうかがえる。
一方、橋爪氏は本書の巻末にある解説で、内村がキリスト教を定義せずに「日本流キリスト教徒」になったのは、「たいへん奇妙なキリスト教に思われる」と厳しく批判している。
これらの点については、本書を英語の原書や鈴木訳と比較して読むことができるであろうし、橋爪氏によるその批判的な解説もそれだけにとどまらず、例えば鈴木範久氏(立教大学名誉教授)のような内村の専門的な研究者や無教会の人たちによる内村の評価を参照して読めば、内村についてより多角的な評価ができるのではないかと思う。
ともあれ、内村は札幌農学校時代に半強制的にキリスト教に入信させられ、卒業後に公職に就くものの、1884年(明治17年)には私費でキリスト教国の米国に単身乗り込む。そして本書の後半では、当時のキリスト教国の印象と大学生活を紹介しながら、信仰のあり方を模索している。
本書の裏帯にもあるように、この若き日の内村の姿は、生き方に悩む現代の若者たちの大きな共感を呼ぶのだろうか?まずは本書を手にとって確かめていただきたい。
『ぼくはいかにしてキリスト教徒になったか』:内村鑑三著、河野純治訳、光文社、2015年3月20日発行、定価1080円(税抜)