「ダビデは、主の前で、力の限り踊った」(Ⅱサムエル6:14)。そして、「角笛を鳴らして、主の箱を運び上った」(15)のです。
「主の箱はダビデの町に入った。サウルの娘ミカルは窓から見おろし、ダビデ王が主の前ではねたり踊ったりしているのを見て、心の中で彼をさげすんだ。こうして彼らは、主の箱を運び込み、ダビデがそのために張った天幕の真ん中の場所に安置した。それから、ダビデは主の前に、全焼のいけにえと和解のいけにえをささげた」(Ⅱサムエル6:16、17)
「天幕の真ん中の場所に安置した」とあります。つまり、仕切りがないのです。モーセの幕屋と違います。イエス様が十字架に架けられた時、神殿の幕が上から下に裂けました(マタイ27:51)。これと同じ状態ということです。
ダビデは、主の前に踊りました。人目を気にしません。主を喜ぶのです。ダビデは神様に何かを求めているのではありません。ささげたのです。礼拝はもらうものではなく、ささげるものです。そして、喜びをもってささげます。神様の前に心から喜ぶ礼拝、それがダビデの礼拝です。しかし、サウロの娘、ミカルはそれがいやしく見えてばかにしたのでした。その結果、「サウルの娘ミカルには死ぬまで子どもがなかった」(23)。
使徒たちは最初、ユダヤ人を伝道していましたが、パウロは異邦人を伝道していきます。ユダヤ人以外の人がどんどん救われていきました。そのことがすでに聖書に書いてあったとヤコブは話します。
「預言者たちのことばもこれと一致しており、それにはこう書いてあります。『この後、わたしは帰って来て、倒れたダビデの幕屋を建て直す。すなわち、廃墟と化した幕屋を建て直し、それを元どおりにする。それは、残った人々、すなわち、わたしの名で呼ばれる異邦人がみな、主を求めるようになるためである。大昔からこれらのことを知らせておられる主が、こう言われる』」(使徒の働き15:15~18)
モーセの幕屋では、ユダヤ人になれば礼拝できましたが、異邦人のままでは礼拝は許されませんでした。しかし、新約の時代にはどんどん異邦人が救われていく。その預言をアモス書に見つけるのです。
私たちの礼拝は、ダビデの幕屋の建て直しです。ユダヤ人でない私たち異邦人がどんどん救われていくのです。そして、「わたしの名で呼ばれる異邦人がみな、主を求めるようになる」(17)。これが、ダビデの幕屋の礼拝です。
神様が私たちに願っておられる「霊とまことの礼拝」は、ダビデの幕屋の礼拝です。その礼拝の完成は、主によってなされます。神様はそれを、天地創造の時から願っておられたのです。イエス様が伝道しておられた時は、まだその時ではない。でも、そういう「時が来ます」(ヨハネ4:23)と。この天地万物、宇宙が造られる前から神様が願っておられた礼拝をしたいと、心から願う時、私たちは祝福を受けます。
「すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました」(エペソ1:4)
ただ主の恵みにより、たとえ罪があっても、罪のない者として神様の御前に出ることができる。「世界の基の置かれる前から」の驚くべきご計画が、今ここにあるのです。
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神内源一(じんない・げんいち) / 徐起源(そう・きうぉん)
ERM聖書学校校長。恵那クリスチャンセンター(岐阜県恵那市)牧師。恵那レーマミニストリー代表、愛知県一宮市の超教派聖会「ワールド・リバイバル・カンファレンス」の理事・講師を務めるなど、その活動は多岐にわたる。同校本部の岐阜県恵那市に加え、京都、岡崎(愛知)、沖縄、立川(東京)など全国数カ所で聖書学校、聖会をおよそ月1回のペースで行っている。インターネット聖書学校、通信聖書学校等も現在開講中。※画像は恵那レーマミニストリーのロゴ。
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