逸子さん。もうすぐ102歳になる義母の名前です。新生年齢4歳。一昨日から我が家にお泊りに来てくれています。このおばあちゃんは我が家族では女性版日野原先生。それほど元気で、前向きで素晴らしい姑殿です。その彼女が今から3年前、98歳の時に私たちを驚かせ、かつ、大変喜ばせてくれました。
私は以前から彼女に本をよく贈っていました。本屋を開いてからもそれは続いていたのですが、逸子さんからは、「私は自分の宗教があるから、春美さんのとは違うので・・・」と快く受け取ってはくれましたが、防波堤は築かれていました。
しかし、それは突然、あまりにも思いがけずやってきました。主の時がいつもそうであるように。私たちが予期しない時に祈りを聞いてくださる、それは私たちが待つことを覚え、主に栄光を返すために。
2011年6月11日、逸子さんから電話がありました。先日、逸子さんに贈った本がとっても読みやすく、もう4回も読んだのだけれど、少し質問したいことがあるとのこと。手紙を書こうと思ったのだが、うまく書けなくて・・・と言いづらそうに話すので、会って話を聞いたほうがいいと思いました。早速、主人におばあちゃんを名古屋に迎えに行ってもらうことにしました。
そして、夕食後、「この本は読みやすいね、もう4回も読んだのよ!」と、話は本の話題にむかいました。何が彼女をそこまで引き付けたのかな、と思いながら聞いていると、いきなり、「どんな罪人も救ってくださるのかね・・・。こんな私でも救ってくれるのかしらん」と、あまりにも思いがけない言葉に、へえ、おばあちゃんのような善良な人も罪のことを意識するんだなあ、と思わず姿勢を正しました。本当に素晴らしい人で、私は主人と結婚してから、いつも彼女と楽しくし過ごせたことを感謝しているのです。
「齢を取ってこれから先どこへ行くのか不安で。こんな罪びとの私なので・・・」「Aさん(著名な尼僧)も、死んでこちらに帰ってきた人はいないし、あちらのこと(死後のこと)は分からないから、この世で毎日充実して楽しく生きることが大事と言っているし」と、なんだかどちらともつかない話に、私は「そうなんですか。Aさんは自分がどこへ行くか分からないと言っているのですか。自分の行き先の分からない方の話を聞いても・・・ねぇ。罪も、死んでどこへ行くかも分からない人の話を真理として聞くのはどうかしらん・・・」と言うと、彼女は大きくうなずいていました。
そして、「イエス様は本当に許してくださるのかね。本当にこのままでいいのかね」と問う逸子さんに、「そうよ、どんな罪びとでも!」と答え、本に書かれてある聖書の言葉を紹介しました。「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます」「おばあちゃん、罪を犯さないで生きている人は一人もいないよね。誰でも神の前には罪びとです。法律には触れなくとも、心の中の悪い思いもすべてそれは神の目から見れば罪と言えるし、何より、罪とは天地を造られ、私たちに命を与えてくださっている方に一度もありがとうとも言わず、感謝もせず、彼を無視して、自分の思う通りに生きていること、それが罪といわれています。イエスを神と信じ、自分の罪を言い表して許して下さいと祈れば、神さまは許してくださるのよ」と話すと、よく理解してくれました。
そして、逸子さんは自ら、今まで誰にも言えなかった自分の罪を主の前に明らかにしてくれました。明るくて元気でいつも前向きなおばあちゃん。4人のお嫁さんからいつも尊敬の眼差しで見られているおばあちゃん。このような彼女にも、人に言えない秘密があったのだ。長いこと重荷を背負って生きてきたんだと、98年という歳月を考えると、もっと早くに・・・と思わずにはおれませんでしたが、そこはやはり、主の時があるのですね。
「おばあちゃんの罪を背負って十字架に架かって下さり、もう、逸子さんの罪はチャラになるのですよ。身代わりになって死んでくださったのですよ」「じゃー本当にこのままで救ってくださるのだね」「ええ、そのままでいいのですよ。何も苦行、修行、苦役をすることはないのです。今のままのおばあちゃんでいいのですよ。ただ自分の罪を天のお父様に申し上げ、許してくださいと言えばいいだけですよ」
「私が祈るように一緒に祈ってみますか」との問いに、すぐに「はい」と答えてくれたので、すぐさまⅠヨハネの手紙1章9節を一緒に祈り、逸子さんが読んだ本に書かれてある悔い改めの祈りと、イエスを救い主として心に迎える祈りをしました。それから、今後の人生を創造主に喜ばれる生き方に、また、創造主の素晴らしさをあらわす人となるように導いていただく祈りもしました。祈っている間、私は逸子さんの両手を固く握り、逸子さんもしっかり握り返してくださいました。これは聖霊の働きでなくて何でしょう。主の時です。祈り終えると、なんだか安心されたような逸子さんの顔がそこにありました。主の御栄光があらわされた時でした。
「最近はよく眠れなかった。そのような時は南無阿弥陀仏の経を唱えていたのよ」という逸子さんに、では今日から、イエス様が弟子たちに教えられた祈りをするといいですよと、主の祈りが書かれたカードを渡しました。早速その夜から、おばあちゃんの祈りが始まりました。
このような訳で、洗礼を受けたいという願いが強められ、その翌日、教会の牧師をお招きして逸子さんに会ってもらい、逸子さんの信仰がゆるぎないものと判断していただき、洗礼を受ける運びとなりました。98歳のおばあちゃんに諮問会で答えていただくのは酷ですので、私が代理として代弁しましたが、超スピード洗礼です。
今回の逸子おばあちゃんの魂の救いによって、また新たに、主の時には遅いということがないという確信が深められました。そして、文書伝道の大切さ、あきらめないで祈り、贈り続けることも。今もこうして生き生きと、良く食べ、よく喋り、くよくよしないおばあちゃんの生き方が主のご栄光をあらわしていると思います。そこにいてくれるだけで、多くの人が、なんでこんなに元気で明るいの? と疑問を持って彼女を見つめるだけで。
昨年は、逸子おばあちゃまと沖縄旅行に行ってきました。帰途についた時、「近いうちに東京スカイツリーに行って、帰りは静岡の鯛めしのお弁当を食べたいね」と言って私たちを驚かせてくれました。彼女の日課の終わりは主の祈りで床につくことです。主はすごい!
■ 本屋ぴりぽの生い立ち: (1)(2)(3)(4)(5)(6)(7)(8)
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塚本春美(つかもと・はるみ)
兵庫県生まれ。1984年三重県四日市市で受洗。家族は夫と子ども3人。2006年、夫の転勤先で現在の本屋ぴりぽのビジョンを主からいただき現在に至る。ライフ・ホープ・ネットワークのボランティアカウンセラー。