思いがけないところから、主は私たちにビジョンを与えてくださいます。旧約聖書の後半に多くの預言者の名前が並び、その一人一人が、大切な言葉を主から預かり、命懸けで伝えてくれています。
その中で一人の人物が私の心を捉えます。
アモス。彼は職業的な預言者には属さず、一介の農夫に過ぎなかったのですが、神によって預言者に召されました。「私は預言者ではなかった。預言者の仲間でもなかった。私は牧者であり、いちじく桑の木を栽培していた」と祭司アマツヤに告白しています。(※)
アモスが預言者に召されたことと、私がビジョンを与えられたことを同じように扱おうとは思ってもおりませんが、ただの主婦に過ぎない私に目を留めてくださったことと、羊を飼育し、いちじく桑の木を栽培していた農夫であったアモスとの共通点として“一介の”という言葉があると思います。一介の農夫に過ぎないアモスが、当時の裕福層に向かって大胆に悔い改めを迫った。一方ビジネスの「ビ」も知らない、且つ、あらゆることの知識に乏しい一介の主婦が主の本屋を始めようとする、その役割に共通点はないものの、互いにただの人を選んでくださったという点が、私には主に感謝をしてもしきれないことなのです。アモスさんは私のようなものと同じように扱われるのはさぞかしご迷惑でしょうが・・・。
しかし、このように主が目に止めてくださるのであれば、いかようにもなるということを、実際に本屋ぴりぽをスタートして、生の生活の中で体験させていただいています。
主への問いかけを始めた2003年、何をどう祈って良いのかも分からず、最初に出た言葉は、「主よ、助け人を私のもとに送ってください」でした。弱虫の私らしい祈りです。それと、おそらく多くの方々が迷われると思う疑問、「本当にこれは主が与えてくださった思いなのだろうか、それとも単に自分の望み、願望ではないのだろうか」という気持ちです。私もそのように迷っていました。
「主が与えてくださったビジョンであれば、当然、ヘルプしてくれる人を送ってくださいますね、私のような者が一人で取り組めるわけがありませんから・・・」と、まあなんとも頼りない者の祈りでしょうか。しかしここから始まったのです。「私の思い? 主からのビジョン?」この問いが交錯する中で、弱い確信ながら祈り続けていました。
祈り続けているというとカッコいいですが、忘れたり、思い出したりしながらです。着かず離れずのこの祈りが3年ほど続いたある日、箱根で開催されていた、日本で奉仕してくださっている宣教師の方々のセミナーから帰ってきた長女が開口一番、「お母さんが祈っていた事は主からのビジョンだよ!」と話しました。
興奮気味に話してくれた彼女の説明は、「祈りの課題の中に、三重県はクリスチャンの本屋が1軒もないので与えられるように、とあった」というものでした。そして、その祈りが壁に貼られて、人々が回りに集まり、祈ってくれたというのです。
「やったー!! やったー」。抱き合って喜びました。なんともおかしな親子です。まだ何も始まってもいないのに。でもこの知らせが、私への神のゴーサインだと確信したからです。それからは迷いもなく、大胆に計画を練り始めました。が、肝心の最初の祈りに対する主の応答は得られないままでした。
それは「クリスチャンの助け人を送ってください」というものです。その当時の私は、ビジョンへの思いだけが強く、何一つ知識もなく、本を売る仕事が何かも知らない、全くの素人でした。このような者にとって主のゴーサインだけが支えでした。
自宅のリビングで始めよう。これが最初から私に与えられていた考えでした。築30年(2006年スタート時)の古い家ですが、大好きな家です。教会の地域の方々が集って下さり、クリスマスや家庭集会をしてきた家です。主がきっとここを用いなさいと言ってくださっていると確信していました。
古い家ですが、1991年に転勤先から帰った折に、一度手を入れ、部屋を広げました。この時も、私はただ家族が今までのスペースでは手狭になったから、との思いの中で計画し、設計していました。家族が憩い、おしゃべりに興じ、受験生であった子どもたちが息抜きしていたキッチンのカウンターが、まさかレジカウンターに早変わりし、本屋ぴりぽの会計の場となるとは予想もしておりませんでした。
※ チェーン式聖書アモス書緒論参照。
■ 本屋ぴりぽの生い立ち: (1)(2)(3)(4)(5)(6)(7)(8)
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塚本春美(つかもと・はるみ)
兵庫県生まれ。1984年三重県四日市市で受洗。家族は夫と子ども3人。2006年、夫の転勤先で現在の本屋ぴりぽのビジョンを主からいただき現在に至る。ライフ・ホープ・ネットワークのボランティアカウンセラー。
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