無神論者と信仰を論じるのに、必ずしも何百冊という本を読んだりする必要はない。基本的な主張や問いは短く簡単に表すこともできるし、それらに対して簡潔に返答することも可能だ。7日に開かれたロンドン福音主義学会で、オックスフォード大学のジョン・レノックス教授が、よくある無神論者の10の主張に対する簡単な返答をいくつか提示した。
1)キリスト教徒だって、ゼウスやトールやその他の神々は信じない。だからキリスト教の神だって信じるべきではない。
ゼウスやトールのようないわゆる「神々」の神は、聖書に書かれた神とは比較の対象にならない。
レノックス教授:古代中東で崇められた神々と聖書の神との間には大きな違いがあります。これらの神々は、古代の人々またこの宇宙のエネルギーの産物です。しかし、聖書の神は天と地を創造した創造者自身です。
2)科学が全てを説明したけれども、その中に神は含まれていない。
科学には答えられない種類の問いもある。例えば「倫理的であるとはどういうことか」「美しいとはどういうことか」。科学が探究の対象とし、時に答えを与える自然界に関する問いであっても、対象はさまざまで、それによってさまざまな説明方法があるものだ。
レノックス教授:ヘンリー・フォードの存在が自動車の内燃の法則と矛盾するということがないように、神だって宇宙の法則と矛盾することはありません。
2)科学は神と相反するものだ。
「神々」の概念にはときに科学に相反するものがあるかもしれないが、キリスト教の神は違う。われわれには理解できないことを説明するために作り出された「神々」の概念はあるかもしれないが、それらはキリスト教とは関係がない。
レノックス教授:科学と神とどちらかを選べという選択だとしたら、それは聖書の神概念ではありません。聖書の神はいわゆる「隙間の神」ではなく、全てをつかさどる神です。科学を通して部分的には理解できることもあります。しかしできないこともあるんです。有名な思想家でもその多くは、非常に非キリスト教的な神概念を持っています。もし神の定義が「隙間の神」なら、その場合は確かに科学か神かという二者択一にならざるをえません。
4)神の存在は証明できない。
この種の主張は、「証明」にも様々な種類があるということを無視している。
レノックス教授:神が存在することを証明できるか?数学的な意味では、答えはノーです。しかし何かを証明するということはそもそも非常に難しいことです。「証明」という言葉には2つの意味があります。数学で使う厳密な意味。これは非常に難しくまれな証明です。しかしもう1つの意味もあります。「合理的な疑いの外にある」という意味です。
そういう証明、合理的な疑いを超えさせる議論はいくつも提示できる。例えば、アルヴィン・プランティンガやウィリアム・レーン・クレイグのような哲学者の合理的な議論、キリスト教徒たちの個人的な体験、キリストの証人としての各福音書がそれに当たる。
5)信仰とは証拠もないのに信じることだ。
キリスト教の信仰において、証拠がないという状況は一度もなかった。そもそも福音書は証拠を提示するために書かれたもので、例えばルカによる福音書の冒頭を見ればそれは明らかだ。ヨハネによる福音書にも「これらのことを書いたのは、あなたがたがイエスは神の子キリストであると信じるためであり、また、そう信じて、イエスの名によって命を得るためである」(ヨハネ20:31)とある。
しかし、「信仰」とは証拠なしに信じることだというのが、現在の「信仰」の捉え方になっている。
レノックス教授:この定義は辞書にもありますし、多くの人々がそう考えています。キリストを信じるというとき、証拠がないからそう信じているんだと言うんです。しかし、ヨハネによる福音書を見れば、キリスト教は証拠に基づいた信仰を語っているんだということが分かります。(続く)
■ よくある無神論者の10の主張とそれに対する答え方:(1)(2)