6)信仰とは妄想だ。
「イースターバニーだろうがサンタクロースだろうが、空飛ぶスパゲッティ・モンスター教だろうが信じないし、同じように神も信じない」
このような考えを持つ人々としては、例えばリチャード・ドーキンス教授がよく知られている。しかし、彼らができることはせいぜい嘲笑することくらいだ。
レノックス教授:科学者の言葉だからといって、常に科学的というわけではありません。スティーヴン・ホーキング博士は、かつて『宗教は暗闇を恐れる人々にとってのおとぎ話だ』と言いました。私に言わせれば、無神論とは光を恐れる人々にとってのおとぎ話です。こういう意見は何の証明にもなっていません。どちらにしろ逆に考えることもできるのです。こういう「妄想」理論の背後にあるのは、フロイト的な願望充足に過ぎません。本当であってほしいと思うことを信じているだけです。神がいないのであれば、確かにそうでしょう。しかし、もし神がいれば、無神論こそ願望充足です。
7)キリスト教は真実だと言っていながら、教派は山ほどあるし、互いに異なる意見を言っている。だから間違いに決まっている。
さまざまな教派の存在がなぜキリスト教が間違いだということになるのか。キリスト教徒たちが非常に多様で、様々な文化や人格を抱えている――そして場合によっては、互いに仲良くするのが得意ではない――ということにはなるかもしれないが、キリスト教が真実ではないということにはならない。
レノックス教授:例えば、サッカーにだって色んな種類のチームがあるが、皆サッカーをやっていることに変りはない。
8)聖書は非道徳的だ。
聖書の道徳性を疑問視する場合、その道徳性の根拠はどこにあるのか。無神論者の批判には重大な矛盾がある。ドーキンス教授は次のように書いている。「電子と利己的な遺伝子の宇宙において、物理的な力と遺伝による複製は盲目的なものであり、ある人々は傷つき、ある人々は幸運である。そこには何の意味も理由も正義もない。われわれの観察する宇宙は、ただわれわれがそこにあるべきだと考える性質を持つだけで、その根底には何の計画も、目的も、悪も、善もない。あるのはただ無慈悲な無関心だけだ」
もしこれが真実ならば、なぜドーキンス教授は道徳など問題にするのか。
レノックス教授:ドーキンスは、信仰は悪だと言っています。しかし同時に彼は善と悪というカテゴリーを廃止しています。これは矛盾です。
9)聖書を文字通り解釈するのはおかしい。
無神論者の中には(そして一部のキリスト教徒も)、非常に白黒はっきりした方法で聖書を解釈しようとする人々がいる。全てを文字通りに捉えるか、そうでなければ、全てを捨て去るべきだと考えている。このような態度は、言語というものの現実と言語がどのように真実を反映させているかを無視している。
レノックス教授:イエスは自分が扉であると語りました。だからといって、イエスはその辺の扉のような扉ですか。そうではありません。文字通りに扉なのではなくて、神を真実に経験するために入っていかねばならない通り道という意味で扉なのです。比喩によって現実を表すのですから、そもそも「文字通り」という言葉が無意味です。
10)神がいるという証拠は何だ?
延々と神の存在を議論することはできる。詳細にわたって深く議論をすれば、それは非常に興味深いだろう。しかしそれでは的が外れているし、重要な問題を見逃している。
レノックス教授:無視論者に問うべき一番重要な問いはこれです。「もし神が存在する証拠を提示できたとして、ただちに悔い改めて、キリストを信じる準備はありますか?」
■ よくある無神論者の10の主張とそれに対する答え方:(1)(2)