無限大を赦す
「赦されても、赦さない人、愛されても、愛さない人がいます」(マタイ18章21~35節)
主イエスは、天国(三位一体の神様の救いのお心/福音)を教えるため、たとえ話を多用された。福音書には約30のたとえ話がある。ていねいにこれら全体を学んでみると、主イエスの教え方に独特の手法があることがわかる。主のたとえ話のメッセ-ジを正しく捕らえるため必要な解釈の原則ともいえる2点である。
1つは、たとえ話の直前を見ること。直前を見ると、たとえ話をもって教えられた背景事情がわかる。そこにたとえ話のテーマがある。テーマをつかむと、メッセージを正確に聞き出すことができる。
2つは、あり得ないポイント、起こり得ないポイントを捜す。誰もが経験済みの日常的なたとえ話には、極端な強調が出てくる。それこそがイエス様の独特の手法である。なぜ、極端な強調なのか? 考えよう。そこにメッセ-ジがある。
まず、今日のたとえ話の直前を見よう。
そのとき、ペテロがみもとに来て言った。「主よ。兄弟が私に対して罪を犯したばあい、何度まで赦すべきでしょうか。七度まででしょうか」―「七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います」
御存じのように、聖書の7という数字は完全数である。
7×70=490=無限に。7[徹底的に]×7[徹底的に]×10[徹底的に]=永遠に、無限に。
ペテロの質問は、仮の話である。動詞は「罪を犯すであろう」「赦すであろう」、ともに未来形である。これに対して、イエス様は大原則、大枠を答えておられる。
簡単に赦してはならない問題もある。法的な正義に訴え出て、裁判を求めねばならないこともある。人を間に立てて、ことの真実をはっきりさせなければならないこともある。イエス様の大原則は「最終的な審判を神様にゆだねて、怒りや憎しみの奴隷になるな。ストレスに自分がさらされて地獄を味わってはならない。審判を神様に任せよ」である。
私たちを傷つける相手、私たちを中傷する相手、私たちを憎む相手に対して7回を70倍するまで赦し続けることができるかというと、それを実行できる人はいない。私たち罪人にはできない。私たち人間は、だれもが、そういう痛みや弱さを持っている。
どうしたら、私たちは審判を神様にゆだねて、赦せるのか? どうしたら、私たちは敵のため祈り、敵を愛することができるのか? これがたとえ話の主題(テ-マ)である。
「このことから、天の御国は、地上の王にたとえることができます。王はそのしもべたちと清算をしたいと思った。清算が始まると、まず一万タラントの借りのあるしもべが、王のところに連れて来られた。しかし、彼は返済することができなかったので、その主人は彼に、自分も妻子も持ち物全部も売って返済するように命じた。それで、このしもべは、主人の前にひれ伏して、『どうかご猶予ください。そうすれば全部お支払いいたします。』と言った。しもべの主人は、かわいそうに思って、彼を赦し、借金を免除してやった。
ところが、そのしもべは、出て行くと、同じしもべ仲間で、彼から百デナリの借りのある者に出会った。彼はその人をつかまえ、首を絞めて、『借金を返せ。』と言った。彼の仲間は、ひれ伏して、『もう少し待ってくれ。そうしたら返すから。』と言って頼んだ。しかし彼は承知せず、連れて行って、借金を返すまで牢に投げ入れた。彼の仲間たちは事の成り行きを見て、非常に悲しみ、行って、その一部始終を主人に話した。
そこで、主人は彼を呼びつけて言った。『悪いやつだ。おまえがあんなに頼んだからこそ借金全部を赦してやったのだ。私がおまえをあわれんでやったように、おまえも仲間をあわれんでやるべきではないか。』こうして、主人は怒って、借金を全部返すまで、彼を獄吏に引き渡した。あなたがたもそれぞれ、心から兄弟を赦さないなら、天のわたしの父も、あなたがたに、このようになさるのです。」
まず王様が出て来る。「天国は地上の王様にたとえることができる」。神様とは、この王様のようである。福音とは、この王様のようだ。
王様の前に[1万タラント/6000億円] の負債があるしもべが連れて来られた。しかし、彼は返済することができなかったので、その主人は、自分も妻子も持ち物全部も売って、返済するように命じた。
罪の負債額は1万タラント(無限)
しょっぱなからあり得ないポイントだ。1万タラント/6000億円である。これは1日1万円で計算すると、17万年分の給料である。古代の国々の国家予算相当である。聴衆には天文学的な数字である。こんな借金ができる人はいない。こんなお金を貸す人もいない。これこそ、あり得ないポイントである。
イエス様は何を伝えたいのか? 私たちの罪の負債額は6000億円である。私の罪の負債は1万タラント、あなたの罪の借金は6000億円。永遠に返済不能。もちろん「自分も妻子も持ち物全部を売っても返済不能」。
私たちは神様の前に、どれくらい罪深いのか? 神様の正義の清さの前に、どれくらいの有罪なのか? 6000億円相当である。
「義人はいない。一人もいない。悟りのある者はいない。一人もいない。すべての者は迷い出てことごとく無益な者になった。善を行う者はいない。一人もいない」(ローマ3章10~12節)
「すべての者、罪を犯したれば、神の栄光を受けるにたらず」(ローマ3章23節)
検査の結果を聞きに出かけた患者は、異常に緊張した医者の表情を見て、自分の病気が簡単ではないことを知る。殺人犯の囚人は、同じ罪を犯した者が、処刑場に向かう後ろ姿を見て、自分の罪の恐ろしさを知る。放蕩息子は、数十年ぶりに見る母親の別人のようにやつれ老いた姿を見て、自分の犯してきた罪の重さを知る。
私たちが、神様の前に、自分の罪の深さや恐ろしさを知る場所は、ただ1点、イエス様の十字架である。清く、傷のない神様のご子息が、あの十字架の上で、あなたの罪を、私の罪を身代わりに背負われたその瞬間に、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか?」と絶叫された。そして、神様の正義の審判を受けて、心臓を破裂させて死んでいかれた。このできごとを見る時だけ、私たちは自分のほんとうの罪深さを知るのである。1万タラントの負債の大きさを知る。この罪の負債を返すことができる人はいない。一人もいない。
■ 「赦されても、赦さない人がいます」: (1)(2)(3)
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