これは、キリストが自分史に介入されたことの証しです。神はあわれみ深く、恵み深い方であり、こんなにも愚かで情けない者も、神に叫び求めると神が救ってくださったという証しです。キリストは、こんな者をも愛してくださったのです。(第11回はこちら:自分のプランではない道、第1回から読む)
突然のスキャンダル
しかし、その生活は私を大きな嵐に巻き込んでいった。副牧師になって1年がたったある日、教会の敷地内にある自宅で、家族でご飯を食べていたら、1人の教会員から電話がかかってきて、話があると言う。「今、食事中です」と言っても、「いいから、すぐに出てきてくれ」と引き下がらない。何かあったのかと出ていくと、車が止まっていて、私はそこに強引に押し込まれた。これではまるで拉致である。
車はその人の家に向かい、玄関に入るなり、父親がスリッパを振りかざして私に殴りかかってきた。一体何事かと思いきや、そこには主任牧師の身内も呼ばれていて、真っ青な顔をして座っていた。他にも2、3人の教会員が呼ばれてきていた。
実は、このA教会の主任牧師は、長年にわたって実にたくさんの性的な罪を犯していたのだ。カウンセリングを装いながら、教会員に性的な行為を仕掛けていた。私を拉致した人は、自分の娘がその被害に遭ったことを知り、副牧師である私もグルだと思ったらしいのだ。私も、それらしいうわさを耳にしたことはあったが、まさかと思っていた。だが、何とその場に呼ばれてきていた主任牧師の身内がその事実を認めており、信じがたいことだったが、うわさは全て事実だったことが分かった。
しばらく話すうちに、私は無関係だということが分かり、相手に謝罪されてその場は収まったが、そこで発覚した問題を放置するわけにはいかない。ちょうどその頃、教会内だけでなく、主任牧師が講師を務めるなど、外部でしてきた仕事先からも複数の告発が起こり始めていた。彼が性的な「カウンセリング」を行ったというのだ。
私は主任牧師のところに行き、「告発されている内容が事実なら、私は副牧師を辞める。こんなの、あり得ないから」と言った。すると、彼は「辞める必要はない。私が悔い改めるから」と言ったのだ。そして、告発をしてきた相手にもそう伝えてくれと言うのだ。私に言わせずに自分で言えばいいのにと思ったが、頼まれた通り、周囲に彼の言葉を伝えたところ、騒ぎは、その時は一応それで収まった。
戦いは終わっていなかった
A教会は大きな教会だったので、イベントも多く、カウンセリングするべき会員も多く、一日一日が飛ぶように過ぎていった。朝から晩まで忙しく働くうちに、あっという間に3年が過ぎた。そして4年目に入るころ、私はまた、嫌な話を聞かされることになった。
お互いを全く知らない3人の女性たちがそれぞれ、直接来訪したり、または電話で「主任牧師にこういうことをされた」と全く同じ内容のことを言ったのだ。それが事実であることは間違いなかった。彼が言った「私が悔い改めるから」という言葉はうそだったのだ。
最初に私を拉致してまで主任牧師の悪事を追求しようとした家族は、彼が「悔い改める」と言ったからこそ矛を収めたのに、実はその後3年間も同じことをしていたことが分かったので、私は彼らを呼んでその事実を告げた。そして「どうしますか」と聞くと、「今度こそ、とことん追求する」というので、弁護士を紹介した。
そうこうするうちに、被害を訴える人が次々に出てきた。被害者たちの年齢は20代から50代にわたった。これは、主任牧師が30年以上の長きにわたってこの罪を犯し続けてきたことの証拠だった。
被害者たちは、教会の外の人たちにも相談をし始めていた。それで、教会外のキリスト教団体からもこの事件を追及するという声が上がり始め、ある団体は、マスコミに訴えて主任牧師をつるし上げ、被害者の女性たちが裁判の原告にならなくても済むようにする、という。こういったことの裁判というのは、被害者側に落ち度がなくても、裁判の過程そのものに傷つけられるし、被害者がいわれのない批判や悪評という2次被害を受けることもあるので、法的な手段に訴えることには確かに難しさもあるのだ。
だが私は、マスコミに訴えると息巻くある団体の宣教師の責任者に、「ちょっと待ってくれ。聖書には、罪を犯した人がいたらまず一人で責めに行き、それでだめなら2人で行き、それでも聞かないなら教会で処分しろと書いてあるんだから、その手順を踏ませてほしい。それでだめだったら、マスコミに言ってもいいから」と説得した。
その後、何人かの人が、1人で主任牧師に会いに行き、彼の悪事を責めた。すると彼は、ある時は罪を犯したことを認めるが、ある時は認めない、というのらりくらりとした態度を見せた。そこで2人組になって行き、話したことを逐一メモに取っても、やはりらちが明かない。
それで、最終的には私が、責任役員8人宛てに、A4の紙8ページくらいに、彼がやったことを詳細に書き連ね、確かに彼は優れた人で、本もたくさん書いているし、コミュニケーション能力も高く、才能にあふれた人だが、こんなことはやってはいけない、と書いて速達で出した。この手紙を出すまでには、精神的な葛藤や恐れ、不安はもちろんのこと、霊的にも大きな重圧を感じていたが、この手紙を出した途端、その圧迫感が消え去った。
ところがその晩、夜寝ていたら、屋根の上を誰かが歩いているような音がする。子どもたちもその音で目を覚ましたのだから、私の気のせいなどではない。トイレから顔を出して屋根の上を見てみたが、何も見えず、ただ足音だけがどんどん寝室の方に近づいていくので、私も寝室に戻った。すると、誰も触ってもいないし、何かがぶつかったわけでもないのに、箱型テレビの上に置いてあった家族写真が突然床に落ちたのだ。主任牧師との対決が、霊の戦いであることをまざまざと感じた瞬間だった。
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