これは、キリストが自分史に介入されたことの証しです。神はあわれみ深く、恵み深い方であり、こんなにも愚かで情けない者も、神に叫び求めると神が救ってくださったという証しです。キリストは、こんな者をも愛してくださったのです。(第6回はこちら:死んだら生きるのか?、第1回から読む)
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再びテゼへ
私を海に向かって突進させる狂気を待っていたのに、代わりにやってきたのは「もう一度わたしにチャンスを与えなさい」という神の声だった。だが、自分の狭い世界の教会にすっかり失望していた私は、そこに助けを求める気持ちにはなれなかった。そこで、思い出したのが、テゼ共同体で私をカウンセリングしてくれたブラザー・トーマスだった。彼になら、何もかも打ち明けて相談できるかもしれない。
国際電話をかけて、これまでの事情と今の状態を話すと、「すぐに来い」と言われた。以前に「あと2週間、テゼに残れ」と言われたときも、今回「すぐに来い」と言われたときも、この人に確信に満ちた声でそう言われると、どうも「そうすべきだ」と思えてしまうようだ。私はすぐにテゼに向かった。
それからローマへ
ところが、いざテゼに着いてみると、ブラザー・トーマスも誰もいない。ローマで大きな集会があって、みんなそこに行ったという。留守を守っていたブラザーに、「おまえも行くか」と聞かれ、「行く」と答えると、すぐにローマ行きの列車切符を用意してくれた。ローマには、欧州中から2万5千人が集まり、会場からバスで1時間くらいのところにある修道院で寝袋生活をしながら、毎日集会に通っていた。
私もその集会に通い始めたが、大みそかの日、その日はバスが7時か8時で終わるから、それまでに帰れと言われていたのに、それを忘れて遅くまで会場に残り祈っていたので、最終バスを逃してしまった。
仕方がないからバス停を逆にたどりながら修道院まで歩いて帰ろうとしたのだが、バスで1時間の道のりは、歩けば4時間以上だ。途中でいい加減疲れてヒッチハイクをしたら、通りかかった1台目の車が、修道院で一緒のグループのリーダーの車だった。最終バスでも帰ってこなかった私を探しに来てくれたのだ。
リーダーの車に乗せられてようやく修道院にたどり着くと、みんなは年越しカウントダウンのパーティーをしながら私の帰りを待ってくれていた。その場に入っていくと、そこにいた100人くらいの人が全員、拍手をしながら私を迎えてくれた。自分一人でなんとかしようともがいていた間はどうにもならず、助けを求めた途端に助けが与えられ、温かく大歓迎されたこの出来事が、私には何か象徴的に思えて心に残った。
キリストの愛を示したブラザー・ロジェ
年が明けて1988年になった。それはベルリンの壁が崩れる前年だった。そんな時代に、共産圏のハンガリーから初めてこの集会に800人の参加者があって、それがローマの新聞の一面記事になっていた。
ある時、ブラザー・ロジェが大きな聖堂でそのハンガリー人たちを歓迎している場面に出くわした。すると、その光景を見ているうちに、私の心にはなぜかむらむらと怒りが湧いてきた。「どうせおまえは白人にしか興味がないんだろ」と思ったのだ。「結局おまえだって偽善者なんだよ」とも思った。当時の私はそれくらい、すさんでいたのだ。
それで思い切り、ロジェをにらみつけていると、なんと、彼がそんな私に気付いて目が合った。彼と私の間には25メートルくらいの距離がある。昔取ったきねづかで目に渾身(こんしん)の力を込めてメンチを切っている私と、「どうしたんだ?」というふうに優しい表情を浮かべているブラザー・ロジェ。その場にいた数百人のハンガリー人たちも皆気付いて、凍りついたようになって成り行きを見守っている。
私の近くにいたハンガリー人が心配してしきりに何か話しかけてくるのを「ウザイ」な、と思っていたら、ブラザー・ロジェが人垣をかき分けて私の方に近づいてきた。それまで気付かなかったが、彼は右手でインド人の女の子の手を握っていた。あとで分かったことだが、その子はマザー・テレサの孤児院から引き取られた彼の養女だった。
その子を連れて私のところまで歩いてくると、彼は左手で私の手を握って、ハンガリー人の「即席歓迎会」の会場になっていた大聖堂を後にした。みんなに見守られながらブラザー・ロジェに手を引かれて歩いているうちに、私の心の中のドロドロした苦く汚いもの全てが正体を現した。それはねたみであり、うらみであり、怒りであり、自己中心性だった。そういった全てを抱え込みながら気付かないふりをして、私はすねて苦々しい思いでいっぱいになっていたのだ。それが今、自分自身にまざまざと突きつけられて、3人で歩きながら、顔から火が出るように恥ずかしくなった。
活力と喜びが戻ってきた
大聖堂のドアの外まで来たとき、ロジェは私を振り返って「おまえさんは、これからどうするんだ」と聞いた。私は「テゼに行って祈ります」と答え、そこから1カ月、テゼの「沈黙のグループ」というものに入り、さんざん泣きながら朝昼晩と神の御前で悔い改めの祈りをした。そうしているうちに、私の心の中からはうつも自殺願望もものの見事に消えてなくなり、それまでの膿を出し切って、活力と喜びが戻ってきた。すると、それを感じた若者たちが、私のそばに寄ってくるようになった。
30日間祈り、回復が与えられたときに、「日本に帰ったら、今度こそ私がきちんとつながれる本物の教会、本物の牧仕、本物の兄弟姉妹を与えてください」と祈り、私は帰国した。
今の教会を開拓してから数年たったころ、ブラザー・ロジェは、マザー・テレサの孤児院から養女として引き取った彼女が成人し、婚約したとの知らせを、彼女の婚約時の写真と共に送ってきてくれた。ブラザー・ロジェも私のことを覚えてくれていたのだ。
写真の説明
ブラザー・ロジェの手前に少しだけ見えている女の子が、上記のインド人の少女だ。彼女は、マザー・テレサの孤児院から引き取られて、ブラザー・ロジェによって養女として育てられていた。彼はこの子を連れ、私の手を握って100メートル以上歩き、大きな大聖堂の外に出た。
当の私は、大勢のハンガリー人のための「即席歓迎会」を台無しにした張本人だ。彼は、そんな私を責めることもなく、むしろ心配して「これから、あなたはどうするのか」と気遣ってくれた。
その時、私は負けた。というよりも、神によって彼に与えられたキリストの愛が、私の幼稚な自己中心性に対して勝利したことを直感的に分かった。ブラザー・ロジェは、霊的孤児の私にキリストの愛を示してくれたのだ。
私は「あなたの共同体テゼに行って祈ります」と答えた。すると彼は優しく「そうか、そうしなさい」と言ってくれた。
今の教会を開拓して間もないころ、テゼから手紙が届いた。そこには成長した少女の写真が同封されていた。手紙には、彼女が婚約したことが書かれてあった。あたかも、「あなたもキリストに結ばれなさい」と促しているかのようだった。
ブラザー・ロジェは、私のことを覚えていてくれたのだ。神は、彼を通してキリストの愛に触れることを許してくださった。今でもそのことを思うと、心の底から神に感謝が湧いてくる。そして、感謝は尽きない。
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