これは、キリストが自分史に介入されたことの証しです。神はあわれみ深く、恵み深い方であり、こんなにも愚かで情けない者も、神に叫び求めると神が救ってくださったという証しです。キリストは、こんな者をも愛してくださったのです。(第7回はこちら:活力と喜びが戻ってきた、第1回から読む)
「本物の教会」を探すうちに妻になる人に出会う
日本に帰国した私は、腰を据えることのできる教会を探して、ありとあらゆる教団の教会の礼拝に出席し始めた。ホーリネス、バプテスト、ペンテコステ、単立、聖公会からカトリックまで、毎週違う教会に行って確かめて歩いた。そんな期間が1年も続いたころだろうか。ある有名な大きな教会のスキーキャンプに参加したとき、知り合った人から「桜井さん、あなたにはA教会が合ってると思う」と言われた。私は知らなかったが、それは単立で、大きな教会だった。
勧められるまま早速行ってみると、そこは私の実家から自転車で5分くらいの所だった。自由な雰囲気で印象が良かったのでしばらく通ううちに、この教会で、後に妻になる女性に出会った。
妻も私も、お互いの第一印象は決していいものではなかった。教会の中に社会人会というものがあり、そこで知り合ったのだが、私が冗談を言ってみんなを笑わせると、一人だけ笑わなかったのが妻だった。ウケ狙いが嫌いな人だから、「この人、みんなを笑わせようとしている」と思うと冷めてしまって笑えなかったらしい。私も妻のそんな様子を見て、いけ好かないやつがいるな、と思っていた。
ある日、新聞を読んでいたら、山谷で労働者への食事支援をしている牧仕の記事が出ていて、興味を覚えた。火曜日には祈祷会もやっているというので、行ってみようと計画を立てたら、私とは全く別に、教会の女の子たちが5~6人、やはりその活動に参加しに行こうとしていることを知った。そこで、じゃあ一緒に行こうということになったのだが、その中に妻もいた。
当時、私の自宅の最寄り駅と、彼女の自宅の最寄り駅が同じだったので、帰り道がいつも一緒になる。その教会には、東武東上線、西武池袋線と新宿線、中央線、京王線、小田急線、東横線、さらに田園都市線まで、ありとあらゆる所から日曜礼拝に来ていた。そんな中で、お互いに同じ路線の同じ最寄り駅というあり得ない確率だった。さらに、その活動に7~8回通ううちに、他の人は皆、残業だのなんだので行けなくなり、彼女と2人だけで行くことが増えていった。そうこうするうちにお互いのことをよく知るようになり、約1年後、私たちは結婚した。このA教会では、大変な思いも味わったのだが、今振り返れば、この教会に行ったのは、ここで妻と出会うためだったのだろうと思う。
「本物の牧仕」に出会う伏線
もう一つ、今でも私のパスターであるチャック・スミスと出会えたのも、よく考えてみると、このA教会に通うようになったおかげだと思う。A教会の牧師は70年代前半、研修旅行で米国に行ったときにチャックと知り合っていたので、1991年にチャックが日本で講演会を行ったとき、そのポスターが教会内に貼ってあったのだ。
しかし私は、彼が誰だか知らず、カルバリーチャペルが何だかも全く知る由もなかった。それが故に、このカンファレンスには特別興味を覚えることもなかったのだが、その講演会の当日、たまたま仕事の残業がなかった。それでも迷ったことを覚えている。というのは、結婚してから住み始めた自宅と、チャック牧仕がスピーカーとして招かれていた会場が逆方向だったのだ。一瞬迷った末に、まあ、行ってみようか、と軽い気持ちで行ってみた。
もう一つの伏線「信仰義認」
新婚生活が始まったころのこと。ありがたいことに妻が与えられたものの、それまでの罪に対して罪責感で苦しむようになった。苦しみ悩む中で、「もしかしたら、この罪責感をはね返す言葉が、聖書にあるかもしれない」と捜し始めた。すると、ピッタリの言葉があったのだ!
「ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖(あがな)いのゆえに、価なしに義と認められるのです」(ローマ3章24節)。ここには「正しいと認められる」には、2つの理由があると書かれてある。その2つとは、「神の恵み」と「キリストの贖い」だ。これだけが、私が義(正しい)と認められる理由だと書いてあった。
「神の恵み」は、受け取るのに価しない者に、神は良いものを与えてくれるという意味だ。それが「与えられる」理由は私にはない。ただ、「神は恵み深い」というだけの理由なのだ。
2つ目の理由「キリストの贖い」とは、キリストが、私が犯した罪のために代わりに十字架で裁かれたという意味だ。つまり、キリストが私の代わりにその責めを負って十字架で裁かれた、と信じれば、罪は赦(ゆる)され、その信仰を正しい(義)と認める、と言っているのだ。
こんなありがたい話があるだろうか。私は「これは使える」と思った。なぜなら、私を罪責感から開放する2つの理由は、どちらも頼りない自分ではなく、揺るぎない神の性質によるのだから。私みたいな者に、神は良くしてくれる。それだけでなく、私の代わりに罪の責めと裁きをキリストが負ってくれたのだ。私はこの言葉を、事あるごとに思い巡らすようになった。
その当時、六本木で働いていて、丸の内線と西武線で通勤していた。ある日の仕事帰り、丸の内線の四ツ谷駅を通り過ぎたところで、また自責の念が襲ってきた。毎日思い巡らしていた言葉、「ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです」を、自責の念にぶつけると、なんと自分を責める気持ちが消えてなくなったのだ。電車に乗っていた私は、心の中で「ばんざーい」と叫んだ! 神は、私を正しいと認めてくれたのだ。神が用意してくれた2つの理由を信じたからだ。「こんなことが起こるのか」と驚いて、帰宅した私は興奮しながら、この体験を妻と分かち合った。
世界史の教科書に載っていた「信仰義認」がこんな愚か者の上に起こったのだから、ありがたいことである。世界史を教えている教諭のほとんどは、意味も理解せずに教えている。だが、こんな愚か者が「信仰義認」を体験してしまったのだ。この素晴らしい出来事の後に、私の生涯の牧仕として尊敬するチャックに出会うこととなる。この巡り合わせは、神が用意されたものだ。ただただ感謝に絶えない。
写真の説明
「マイムマイム」というフォークダンスを踊っている。マイムというのは、ヘブル語で「水」という意味だ。砂漠の地で井戸を掘り当てたときの喜びを表す歌でもある。歌の起源はイザヤの預言にある。「そのとき、足のなえた者は鹿のようにとびはね、口のきけない者の舌は喜び歌う。荒野に水がわき出し、荒れ地に川が流れるからだ」(イザヤ35章6節)。このマイムマイム(水水)は、私たちの人生に与えられたキリストの豊かな恵みを表している。まさに「枯れていた人生に、生ける水が注がれた」というのがピッタリだ。また、その後、私たちの人生に注がれる恵みを意味していた。そのことを思うとき、神に感謝は尽きない。
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