これは、キリストが自分史に介入されたことの証しです。神はあわれみ深く、恵み深い方であり、こんなにも愚かで情けない者も、神に叫び求めると神が救ってくださったという証しです。キリストは、こんな者をも愛してくださったのです。
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愚か者だった私
聖書の一部を書いたヤコブは、知恵について次のように説明している。
「上からの知恵は、見せかけがない」(ヤコブ3:17)。これから私は、神が私によくしてくださったことを語ろうと思う。知恵とは、「見せかけがない」と聖書はいう。その知恵に従い「そのままの桜井」に、神がどれほどよくしてくださったかを分かち合わせてほしい。
私は、優秀な経歴を犠牲にして主イエスに自分の人生をささげたわけではない。さらには、たたき上げの苦労人でも、社会の底辺から成り上がった成功者でもない。中途半端な「ちょいワル」ではあったが、極悪・極道であったわけでもない。
聖書に書かれている放蕩息子の話を聞いたとき、「ボンボンで、親からの財産をキャバクラの女の子と一緒に全て散財してしまったダサイやつ。人間関係の作り方も、生き抜くすべも知らない愚か者」と思った。
よく考えてみると、この「愚か者」は私なのだ。キリストを知る以前の「私」には、まさに放蕩息子のような「愚か者」という表現がピッタリとくる。
愚か者であるのに、キリストはよくしてくれた
万が一、あなたが共感できるとすれば「愚か者」という部分だけだろう。「自分は愚か者ではない」と思う人にとっては、これから始まる「神は愚か者の私にでさえ、とてもよくしてくださった」という長い文章を読むことは苦痛だろう。
しかし、もしあなたが「私/俺も愚か者だ」と思えるなら、「神は愚か者にもよくしてくださる」という観点から、あわれみ深く、恵み深い神が見えてくるかもしれない。
下記の詩篇は、まさに私の人生そのものだ。うそかまことか、この文章を読むことによって、あなたにも神が語り、深くあわれみ、多くの恵みを与えてくださいますように。
愚か者は、自分のそむきの道のため、また、その咎のために悩んだ。彼らのたましいは、あらゆる食物を忌みきらい、彼らは死の門にまで着いていた。この苦しみのときに、彼らが主に向かって叫ぶと、主は彼らを苦悩から救われた。主はみことばを送って彼らをいやし、その滅びの穴から彼らを助け出された。彼らは、主の恵みと、人の子らへの奇しいわざを主に感謝せよ。彼らは、感謝のいけにえをささげ、喜び叫びながら主のみわざを語れ。(詩篇107篇17〜22節)
喜び感謝しながら、キリストがしてくださったことを語る
これから分かち合うことは、愚かだった私が、キリストに向かって「助けて」と叫ぶと、彼が助けてくれたことに尽きる。
これを読んだ人が「こんな桜井でも赦(ゆる)され、よくされるのなら、私/俺でも大丈夫じゃなぁい?」と思ってくださったら幸いだ。それこそが、キリストが願っておられることだからだ。
キリストがよくしてくださったことを、喜んで分かち合う機会が与えられたことを、心から感謝している。
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神にささげられた赤ちゃん
1958年4月、桜の花が舞う日曜日の午後、東京荻窪の衛生病院で私は生まれた。母は「最初に胎から出てきた男の子は、神のもの」という聖書の言葉が強く印象にあったので、ベッドの上で「天のお父様、この子をあなたにささげます」と祈った。だが、私がそれを知るのは、牧仕(牧師)になって20年以上がたったときだった。
突然始まった米国生活
1970年。名古屋にはケンタッキー・フライド・チキンの1号店がオープンし、銀座にはマクドナルドの1号店がオープンした年だ。海の向こうから運ばれてくる米国人の食生活を、われわれが驚きと憧れをもって取り入れ始めたこのころ、1ドルはまだ360円だった。
今のように誰もが気楽に海外旅行をするような時代ではない。「帰国子女」なんて言葉もなかった。だが、わが家は一家そろって米国に引っ越すことになり、12歳だった私は、冗談じゃないとむくれていた。父の仕事の関係で1年間、フィラデルフィアに行くことになったのだが、当時友達がたくさんいて学校生活を大いに楽しんでいた私としては、その全てと離れてどうして米国なんかに行かなきゃいけないのか、自分だけ置いていってほしい、という気持ちだった。
だがもちろん、そういうわけにはいかない。父と母、弟と妹と一緒に私は米国に渡った。実は、父の仕事先から赴任手当として出ていたものは、父一人分の額だった。だが、クリスチャンだったうちの母は妙に肝が座っており、かつ、家族は一緒に暮らすべきという信念も持っていた。それで、「どうにかなるでしょ」とばかりに家族5人での引っ越しとなったのだ。
そんなわけだったから、生活は苦しかった。家具は全部、米国で通うようになった教会の人にもらい、テレビもおさがりの白黒だった。自転車も買えないから、私は大家さんの家の芝生を刈って、その代わりに自転車を借りて学校に行ったりしていた。
いやいや行った米国だったが、学校生活にはすぐなじむことができた。もちろん、英語は全くできないまま行ったから言葉の苦労はあったし、ジャップ(日本人をさげすんで呼ぶ差別用語)と呼ばれたり、他校の子どもたちに襲われて自転車を壊されたりと苦労もあったが、その町で私の周りにいた外国人はわが家とインド人の一家だけだったので珍しがられ、やがてクラスメイトはわれ先にと誕生会に私を招きたがるようになった。
冬になると、マンションの広い敷地内にある池が凍り、そこでアイスホッケーを楽しんだ。ほかにも、アメフト、サッカー、バスケなど、スポーツに明け暮れ、気が付けばクラスの中心的存在になっていた。日本を離れるときに自分だけ置いていってほしいと思ったことがうそのように、米国での生活を謳歌(おうか)していた私だったが、父の在米期間は最初から1年と決まっていた。またしても、仲良くなった友人と別れ、新しい環境に飛び込んでいかなければならなくなったのである。
この米国滞在中に、印象的な出来事があった。それはクウェーカーの米国人女性の家に招かれて行ったときのことだ。彼女が、私を指差して「この子は将来、牧師になります」と預言したのだ。果たしてその通りになったのだが、私がそのことを知ったのは、牧仕になってから数年が過ぎたときのことだった。
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