これは、キリストが自分史に介入されたことの証しです。神はあわれみ深く、恵み深い方であり、こんなにも愚かで情けない者も、神に叫び求めると神が救ってくださったという証しです。キリストは、こんな者をも愛してくださったのです。(第3回はこちら:キリストが現れ、助けてくれる、第1回から読む)
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それでも相変わらずだった私
大みそかにそのような大事件に見舞われた私だったが、若いというのか、こたえない性格というのか、次の日にはなんとスキーに行ってしまった。それでも後日、その日のことを思い出すと無意識のうちに涙がだらだら流れてくるような状態がしばらく続いた。
それまでの私は、神の存在は信じているけれど、イエス・キリストとなるとどういう存在なのか分からないという状態だったので、あの幻の中で体験したことが、キリストとの初めての出会いだったのだ。
牧仕には後日呼び出され、「ラララ」と言ってみなさいなどと指示を受けた。私から異言を引き出そうとしていたのだ。だが、いくら「ラララ」と言ってみたところで異言など出てこなかったので、「あほらしいから、帰るわ」という感じで終わった。
その後、大学に戻った私は、人間関係の面でも学業やバイトの面でも順調で、充実した日々を送っていた。友人を誘って南部バプテスト教会にも行き、美大の友人だけで4~5人が教会に通うようになり、彼らのための日曜学校みたいなものができるほどだった。
しかし実は、私はそれでもまだ全然、神のことが分かっていなかった。聖書を読んでもちんぷんかんぷんだったし、キリストに出会ったとはいえ従うつもりもなかったし、そもそも従う必要があるなどとは考えもしなかった。私にとって一番大事なことは私がやりたいことであり、私が「成功して」、ひとかどの人物になることだったのだ。
ロンドン→北京徒歩旅行を計画する
では、どのようにして「成功する」か。あれこれ考える中で、私の冒険のヒントになる人物が一人いた。それは『インド放浪』という写真エッセイ集で一躍有名になった藤原新也という写真家・随筆家である。
彼のように世界のあちらこちらを写真に収め、本を出し、有名になるということが、私には手が届かないこともない夢に思えた。また、米国にも一人、似たようなことをしている人がいた。彼はボストンからカリフォルニアまで、途中で拾った犬を道連れに5年かけて歩いていた。行く町々で働きながら旅を続け、途中で結婚もして、そこからは奥さんも一緒に歩いていた(彼らは、旅の途中でイエス・キリストを信じるのだが、この時の私は、「それはいいことだなあ」くらいの薄い認識しかできない心の状態だった)。
彼の本を2冊読んで、これは面白いな、自分の性にも合っていそうだなと思った私は、大学を卒業するとき、先生たちに「ロンドンから北京まで、徒歩旅行をする。行く先々で友達を作って、その友達に誰かを紹介してもらいながら進んでいって、最後は北京に到達する」という「冒険」を語った。そして、その途中写真を撮りながら、旅が終わったらそれを本にするのだ。われながらいい考えに思えたし、先生たちも面白がってカンパを集めてくれた。フィラデルフィアの日本人教会の人たちも、「若者の夢を応援する」という感じでカンパしてくれたし、祖父までもが「面白い」と言ってお金を出してくれた。
実はこの時、私には婚約者がいた。大学在学中に一時帰国した際、旧友に誘われて浅草で行われた「お酉様」というお祭りのようなものに行ったのだが、その時に彼女が連れてきた女性が、私と同じように米国から一時帰国中だった人で、お互い米国に戻ったあと、交際が始まり、やがて教会で婚約式をした。
「お酉様」という他宗教のお祭りのようなものにのこのこ出かけて行って出会った女性とつき合い、彼女も私と結婚するためにつき合いで洗礼を受け、お互い自分の罪も、神への献身も分からないまま教会で婚約式を挙げるというのは、この頃の私の混乱した霊的状態を象徴していた。
ローマから北京を目指す旅に出るとき、この婚約者が一緒に行くかどうかで一悶着(ひともんちゃく)あったが、結局、彼女はバックパッカーなどできるタイプの女性ではなく、同行するには無理があった。
というわけで、一人で出発した旅は、7カ月に及んだ。最初は英国に行き、そこからスコットランド、アイルランドに移動した。アイルランドには大学時代の知人がいて、アイルランド人の女の子と婚約していた。彼と彼の婚約者と私の3人で1週間ほど一緒に旅をしたが、あるパブに入ると、私を見た途端に楽団が演奏をやめてしまった。アジア人を見てびっくりしたらしい。まだそういう時代だったのだ。
アイルランドの次はベルギーに行って日本人教会に出席し、それからオランダ、デンマーク、ノルウェー、スウェーデン、フィンランドと回ってソビエトに入った。
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