これは、キリストが自分史に介入されたことの証しです。神はあわれみ深く、恵み深い方であり、こんなにも愚かで情けない者も、神に叫び求めると神が救ってくださったという証しです。キリストは、こんな者をも愛してくださったのです。(第4回はこちら:それでも自己実、第1回から読む)
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安倍哲っちゃんとの出会い
ノルウェーでは面白いことがあった。オスロの教会に行くと、そこの教会員のうち3分の1くらいの人が日本語を話すのだ。アイルランドのパブではアジア人が現れるとびっくりして音楽が止まったのに、オスロの教会では日本語を話せるノルウェー人がなぜそんなにたくさんいたのか。実は、彼らは宣教師として日本にいたことのあった人たちだったのだ。
この教会のある人に、尋ねられるままにキリストに出会ったときの話をしていたら思いがけず涙があふれ出てきて、むせび泣いてしまった。実はこれは、自分でもよく分からない自動的な反応のようなもので、キリストの救いの意味や、自分とキリストの関係がよく分かって泣いていたわけではなかったのだが、話を聞いていた側には、私が心底から献身している人間に見えたのかもしれない。元宣教師の一人が、当時宗教が厳しく禁じられていたソビエト連邦に、ひそかに聖書を運ばないかと持ちかけてきた。冒険心をくすぐられた私は、ワクワクしてすぐに引き受けた。
さらにノルウェーでは、もう一つ興味深い出会いがあった。ひよこ鑑定士の安部哲という人である。ひよこ鑑定士とは、正確には「初生ひな鑑別師」といって、ひよこのオスとメスを見分けるプロフェッショナルだ。この仕事には欧米人に比べて手の小さなアジア人の方が向いていて、日本人鑑別師は海外でもとても重宝されたらしい。安部哲さんも海外で活躍した一人だったが、1960年、中近東の食糧危機に備えて政府食糧庁顧問としてエジプトに派遣された。その後、内戦中のキューバにも鑑別師養成のために招聘(しょうへい)され、キューバ国民兵たちにこの技術を教えていた。
その際、国民兵たちが全員、拳銃を持って教室にやって来ることが安部さんには心配だった。暴発事故などが起こることを懸念したのである。それで、授業中は拳銃を預かり、終わると返すというやり方をしていたのだが、兵士たちはこれが不満だった。いつ敵に襲われるかもしれないので、拳銃は片時も離したくないというのである。
兵士たちの不満は後、かの有名なキューバの戦士、チェ・ゲバラの耳にまで届いたらしい。うわさを聞いた国防大臣チェ・ゲバラは、安部さんが教える学校をわざわざ訪れて、「どういうつもりで生徒から銃を取り上げるのですか」と問いただした。この問いに対して安部さんは、ゲバラの前で目隠しをして拳銃を分解し、素早く組み立ててみせ、拳銃の扱いに熟練しているさまを見せつけてから、「これくらいのこともできない者に銃を持たせるのは危ないから、教室では私が預かっているのです。授業が終われば返しているのですから、構わないでしょう」と言ってのけた。驚いたゲバラは、「おっしゃる通りです。どうぞ、思う通りのやり方でやってください」と言って、あとは楽しく話に花が咲いたという。
安部さんはその後、ノルウェーで仕事をしているときにキリストと出会い、クリスチャンになった。私が出会ったときの安部さんはもう70代だったが、ソ連への聖書運びもしたことがあるという。私が聖書運びを頼まれて引き受けたことを話すと、「大丈夫だ。捕まっても鞭で打たれるくらいだ。俺も一度、捕まって鞭で打たれた」と慰めにも励ましにもならないようなことを言ってくれた。
聖書の密輸
そういうわけで私は、ノルウェー人の元宣教師のスカウトにより、ロシア語の聖書と、ストックホルムから流れる短波ラジオのキリスト教番組のプログラムと、ロシア人クリスチャンの詩を小冊子にまとめたものをソ連に運び込むため、それらをバックパックに詰め込んで、まずはフィンランドのヘルシンキまで行った。
そこから列車でソ連に入るのだが、なんとフィンランドとの国境で列車が止められ、機関銃を肩から斜めに下げたソ連の兵士たちが乗り込んできた。乗客の荷物検査をするためだ。まずいことに、私の財布の中には「からし種ほどの信仰があるなら、この山に『ここからあそこに移れ』と言えば移ります」という聖書の言葉を書き留めた名刺サイズのカードが入っていた。当時の私は、そういう「自分の思い通りになる」的な聖句が好きだったから(もちろん間違った解釈なのだが)、気に入って、カードに書いて財布に入れてあったのだ。
このカードを見つけた兵士たちは、私のバックパックを全部開けて念入りに調べ始めた。するとロシア語の教師用の聖書が6冊も出てきたものだから、向こうの顔色が変わり、私は列車を下ろされ、吹雪の中、外にある小屋に連れ出されて1時間も調書を取られるはめになった。私は教えられた通り、「レストランで初めて会った人に『持っていけ』と言われて受け取っただけですよ」という言い訳を繰り返して押し通したが、その間、列車はずっと止まったままで私を待っている。
結局、両手の指10本全部の指紋を取られ、ようやく解放されたが、列車の自分の席に戻ると、さっきまで意気投合しておしゃべりをしていた米国人の2人組も含め、私と口をきいてくれる者は誰もいなかった。
そんな大変な思いをしてようやくレニングラードに着いたが、そこには迎えに来てくれるはずの人の姿がなかった。共産圏では自由に移動することができないので、旅行をする際には普通、あらかじめ人を雇って迎えに来てもらうものなのだが、列車が大幅に遅れたせいか、はたまた荷物検査の一件が伝わったのか、私をホテルに連れて行ってくれるはずの人が現れない。
仕方がないのでヒッチハイクをして、トラックの運転手にホテルまで連れて行ってもらった。やっと部屋に着いてほっと一息つくとおなかが空いてきたのでレストランに行き、腹ごしらえをして帰ってくると、部屋の中が荒らされていた。
私の荷物は全部バックから引き出されて散らされており、トイレの中には先ほどまでなかったタバコの吸い殻が3本浮いている。ぼうぜんとしているところに電話が鳴った。出てみると、知らない声の男がロシア語で何かをわめき散らし、最後は私をバカにするかのように笑って切った。ソ連の保安警察・KGBの脅しだった。血気盛んな若者の冒険ごっこだと見抜かれたのだろうか。逮捕するまでもないが、調子に乗るなというお仕置きのようなものだったのだと思う。
そんなわけで、レニングラードでは何もせずにモスクワに移動した。実は列車の中でロシア語の聖書は見つかって没収されてしまったが、どういうわけかラジオ番組のプログラムとクリスチャンの詩の小冊子は見つからず、手元に残っていたのだ。それを届けるために、教えられた通りに地下鉄やバスを乗り継いで尾行をまき、モスクワにある政府公認のバプテスト教会に行った。
そこで見た光景は、ちょっと現実離れしていて、今でも忘れられない。到着したのは夜中だったのに、教会の中には4千人くらいの群衆が集まっていて、バルコニーから何からびっしり人で埋まって立錐の余地もない。その大群衆が賛美しているのだが、信仰者にとって厳しい状況の中で、必死に神にすがり、神を求めている人たちが賛美しているときの輝きは、鈍感な私でさえ胸を打たれるものがあった。この教会では無事に、主任牧仕にストックホルムから預かってきたものを渡すことができた。
次はウクライナのキエフに行った。今は「キーウ」と呼ばれるようになったこの街は、当時はソ連の一部だった。そこの家の教会の人たちにもラジオのプログラムと詩の小冊子を渡すと、今度はポーランドに向かった。列車の中でポーランド人と仲良くなり、ポーランドに着くとその人の家に泊めてもらった。そればかりか、その人の親戚も何人か紹介してもらって、その人たちの家を泊まり歩いた。
ブラザー・トーマスとの不思議な出会い
ある時、アウシュビッツのそばにある家に泊めてもらったのだが、その家の娘さんがアウシュビッツ収容所跡のガイドをしていたので、私を連れて行ってマンツーマンで案内してくれた。彼女が説明してくれる話を聞くうちに、頭痛がしてきて、ある部屋まで来たときに、ついに吐き気までしてきた。非常に貴重な体験だったと思うが、とても耐えられない話だった。
その後は、チェコスロバキア、東ベルリンを経て、西ドイツに出た。西ドイツにはストラスブルグの近くに友達がいたので会いに行くと、彼はシュバイツァー博士の生家を博物館にした所でスタッフをしていた。それで特別に、シュバイツァーが寝ていたというベッドに寝かせてもらった。
ストラスブルグにはシュバイツァーが通っていた神学校もあって、そこのカフェテリアにランチを食べに行ったら、韓国人の神学生と出会い、いろいろ話しているうちに、彼が「君にはきっとテゼが合うと思うから、ぜひテゼに行ってみろ」と言い出した。
テゼとは、フランスのブルゴーニュに1940年に創立された男子修道会である。創立者のブラザー・ロジェは、人々の間にある壁を乗り越えて和解をもたらすことを追い求めていた。
彼の親戚たちは、第一次世界大戦で味方と敵に分かれてしまった。その後、お互いに憎しみ合うようになったのだが、父方の祖母が彼らの間に和解をもたらすのをブラザー・ロジェは目撃した。その後、彼はキリストにある和解を追求し、祈りと労働を共にしようとしたのだ。
そしてスイスの神学校を卒業した後、母親の故郷テゼを自転車で旅している最中に、過疎化が進んで霊的指導者がいなかったこの村の人たちから霊的指導者になってほしいと頼まれ、ここに共同体を作るに至った。
ブラザー・ロジェ自身はプロテスタントだが、テゼはカトリックもプロテスタントもギリシャ正教も全て受け入れ、何の溝も感じさせない懐の深さがある。
やがて、テゼには世界中から数え切れないくらいの若者たちがやって来るようになり、しばらくの間そこに滞在してブラザー(修道士)たちと一緒に祈り、聖書の学びをし、食事の準備や掃除などの労働を共にして過ごす場所になった。
韓国人神学生に、そこに行ってみろと勧められた私は、これもまた興味本位で行ってみることにした。テゼには、私のようなバックパッカーがたくさん集まっていた。その中に、スイスの交響楽団でクラリネット奏者をしている若者がいて、街角に立って演奏をしては小銭を稼ぎながら欧州を旅して回っているという。似たようなことしているやつもいるもんだと意気投合し、テゼでの滞在が終わったら、一緒にスペインをヒッチハイクで周ろうと約束をした。
テゼでは朝昼晩と礼拝があるのだが、2日目の晩あたりに、ある人と一緒に祈っていたら肩をたたかれ、ついて来いと言われて一緒に森の中に入っていった。しばらく歩くと小屋があって、小屋の中にはテゼの創始者であるブラザー・ロジェがいた。ココアとクッキーをふるまわれ、ロジェが何か話しているのを聞いていたが、フランス語だったので内容は分からない。ただ、それでも彼のうちに優しいスピリットがあることは感じられた。
3日目くらいに、ブラザー・ロジェにも会えたことだし、クラリネット奏者の彼と、そろそろ次へ行くかということになって、英語でコミュニケーションする人たちを担当してくれていたブラザー・トーマスにあいさつに行った。ところが、トーマスは私の目を真っすぐに見て、「君はもう2週間、ここにいる必要がある」と言うのだ。クラリネット奏者はもう、丘を降りてバス停の前で私を待っている。だから「次に行く所があって、一緒に行く相棒が私を待っている」と断ったのだが、ブラザー・トーマスは「大切なことだから、あと2週間ここにいろ」と言って譲らない。一瞬、混乱したが、人生の中で、私にこんなことを言ってくる人は今までにいなかった。それで、バス停まで下りて行ってクラリネット奏者に訳を話し、ここに留まることにしたと言ったら、彼は怒ってしまったが、「後から会いに行くから滞在先の住所を教えろ」と説得して別れた。幸い、その約束を守ることができて、後日彼とも再会できた。
それから、毎朝1時間くらいブラザー・トーマスからカウンセリングを受け、めちゃくちゃな婚約のことや、世界旅行を始めたきっかけなど、いろいろなことを彼に話した。彼に「なぜ旅行をしているんだ」と聞かれ、「写真を撮って、旅行記を書いて、本を出すんだ」と答えると、「本を出してどうするんだ」とまた聞いてくる。
「有名になる」
「有名になってどうするんだ」
「クイズ番組にでも出るかな」
「クイズ番組に出てどうするんだ」
そんな会話をしているうちに、なんだか先が見えた気がして急にむなしくなってしまった。今まで欲求の燃料となっていたものが、全て床にこぼれてしまったような気がした。もう無理だ、続けられないと思った。
国際電話で母親に「これこれしかじかの理由で帰国する」と伝えると、「帰ってくるんじゃない。結婚したら二度とそんなことはできないのだから、やり遂げて帰ってこい」と言われたが、「それでも帰ることにした」と、これが自分の最終決定であることを伝えた。そのことで、今まで後悔したことは一度もない。神は、ブラザー・トーマスを通して、私の行く道を変更してくださったのだ。
こうして、7カ月続けてきた旅は、当初の予定まであと1年と5カ月を残して頓挫してしまったのだ。
後から考えてみると、あのまま旅を続けていたら、アフガニスタンで死んでいたかもしれない。当時ソビエトがアフガニスタンでタリバンと戦っていたのだ。アフガニスタンのビザもワシントンDCのブローカーにお金を払って取得していた。アフガン行きの計画を、旅の最中に知り合った人たちに伝えると「お前はクレイジーだ」と、何度も言われたのを思い出す。
神は無知で無謀な私を生かしてくださったと、今では心から感謝している。
ハガキに書いてあったこと
ハガキには次のように書いてあった。
1996年8月18日、日曜日
親愛なる知主夫へ
あなたが日本へ戻り、今では牧仕になっている素晴らしいニュースを聞けてとてもうれしいです。
あなたがテゼに来たときのことはよく覚えています。
あなたのことを覚えて祈っています。
キリストの復活にあって
ブラザー・トーマス
昨年、教会のある姉妹がテゼ共同体を訪問した。「ブラザー・トーマスによろしく伝えておいてください」と頼んでいたのだが、彼女がテゼを訪ねると、彼はすでに天に召されていた。神は、彼を用いて私の行く道を大きく変えられた。バックパックの旅行は2年の予定だったが、7カ月で帰国することにした。私は一度も、そのことを後悔していない。逆に、ブラザー・トーマスを思い、ただ神に感謝し、神を褒めたたえている。
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