これは、キリストが自分史に介入されたことの証しです。神はあわれみ深く、恵み深い方であり、こんなにも愚かで情けない者も、神に叫び求めると神が救ってくださったという証しです。キリストは、こんな者をも愛してくださったのです。(第5回はこちら:「本気でぶつかってくる人」いたのか!、第1回から読む)
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自己実現vsキリスト実現
ブラザー・トーマスとの問答から2カ月後、私は日本に帰国した。世界を回って本を出すというプランが挫折してしまったので、写真で食べていこうと思い、広告業者やアートディレクターたちが所属している事務所に片っ端から電話して営業をかけた。折しも日本はバブル時代の真っただ中で、仕事にはありつくことができた。仕事は軌道に乗っていったが、それと反比例するように、婚約者との関係は悪化していった。
そんなある日、米国で世話になっていた、両親の友人であるあの牧仕がやって来た。彼が、私の祖父が協働牧会している教会に連れて行ってくれ、と言うので運転手を引き受けた。その教会に入ったとき、私は急に具合が悪くなって床に倒れ込んでしまった。彼が私の肩に手を置いてくれると、あの悪霊につかれたときのように、腹の奥底から熱いものがこみ上げてきて、自分の意思とは無関係に「愚かだった」という言葉が口をついて出た。
その夜、家で寝ていると男の声で「ロマ書6章8節」と言う声が、少し間隔を空けて3回聞こえた。1回目と2回目は、半分眠りながら聞いていたのだが、3回目を聞いたとき、「これは、一体なんだろう」とベッドの上で起き上がった。それから立ち上がってトイレに行き、部屋に戻る途中に母親の聖書を見つけた。そこで、「ローマ人への手紙6章8節」を開いてみると、「もし私たちがキリストと共に死んだのなら、また彼と共に生きることを信じる」と書いてあった。
この御言葉の内容自体については、「そうか」と思っただけだった。何やら、大切なことが書いてあるらしい気はした。だが、どういう意味なのか分からない。だからその時はただ部屋に帰って寝て、翌朝、実家に泊まっていた牧仕と朝食を食べているときにその話をしたら、彼は「それはキリストだ」と言って、別室に移り、私の肩に手を置くと、その瞬間、異言が私の口から出てきた。
以前、悪霊を追い出してもらった後の時とは違って、今回は私の口からハッキリとした言語が出てきたのだ。それに伴って、私の目は天を見上げ、存在全体が天に引きつけられているような感覚になった。1時間は、異言を話し続けただろうか。その後3カ月ほど「喜びに満ちた」状態が続いた。ジョギングをしていても、草木が私に向かって「良かったね」と祝福して、語りかけてくれるような感覚だった。まさに次のように聖書に書いてある通りだ。
「被造物は切実な思いで、神の子どもたちが現れるのを待ち望んでいます」(ローマ8:19)
この時、その牧仕からスイス人の心理学者ポール・トルニエ氏が書いた本を渡されて、一気に読んでしまった。しかし、人間の言葉では心を変えることはできないことを後年理解するに至った。神の言葉でなければキリストのように変えられる道へはたどり着けないことを、身をもって知ったのである。
その後、ついに婚約者と完全な破局を迎えると、私の精神状態は一気に沈み込んでいった。
異言の解き明かし
後年分かったことだが、この異言が解き明かされた内容こそ、ローマ書の6章8節だったのだ。それは上の句と下の句からなっており、地球上に存在するものなのかは分からないが、はっきりとした言語だった。「もしキリストと共に死んだのなら、彼と共に生きることになると、信じる」これが、私がした異言の解き明かしである。
死の淵まで落ちていく
それからしばらくして私は、前出の牧仕に紹介された人と婚約した。私にはもったいないような性格の良い人だった。しかし、自分自身で彼女を選ぶという思いになれず、結局この人との婚約も破棄することになり、私は一層落ち込んでしまった。自分で自分の気持ちを整理することも、消化することもできない。2回目の婚約破棄とあって、周囲から非難されたし、信頼も失ってしまった。私の方でも、内情をよく知らない人たちからの非難やうわさ話が聞こえてくる教会を信頼できなくなっていた。
毎日、2トンくらいの重荷を背負って這(は)いずり回っているような感覚だった。うつ状態は2年以上続き、不眠のために昼夜は逆転した。眠れないまま朝を迎え、仕事の電話がかかってくるとそのまま出かける。打ち合わせのランチで食べた料理が喉を通らずに戻してしまったこともある。こんな状態だったので、当然のことながら、仕事もだんだんうまくいかなくなっていった。
そのうち、自殺願望が出てきた。ある時、夜中の3時ごろに大井埠頭に行って、車で海に飛び込もうと思い詰めていた。
正気のままでは飛び込む度胸はないが、狂気が宿れば飛び込めると思い、エンジンをふかしながら自分の中に狂気が宿る瞬間を待っていると、神に「もう一度わたしにチャンスをよこしなさい」と語りかけられた気がした。耳に聞こえる声ではなかったが、神がそう言っている、という思いが突然心の中に入ってきたのだ。
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