これは、キリストが自分史に介入されたことの証しです。神はあわれみ深く、恵み深い方であり、こんなにも愚かで情けない者も、神に叫び求めると神が救ってくださったという証しです。キリストは、こんな者をも愛してくださったのです。(第10回はこちら:ベイビー牧者の大失敗、第1回から読む)
米国からアジアへの伝道旅行に同行する
チャックの学校に通い始めて1年が過ぎようとするころ、コスタメサの教会の牧仕が中国、ベトナム、日本の東北に伝道旅行に行くと言うので、私は同行を希望し、チャックは許可を与えてくれた。
まずは香港に渡り、香港在住のカルバリー・チャペルの宣教仕と一緒に、ベトナムに行った。共産主義国のベトナムにも、アンダーグラウンドの教会がある。私たちは人脈を作るためにホーチミンとハノイに行った。その後日本に行き、東北地方での伝道旅行を終え、米国に戻ろうとして米国大使館に行ったら、私のビザは延長できないと言われてしまった。
私はフラー神学校に留学するとき、J1という一番長い滞在を許されるビザを出してもらっていた。そのビザを持っていれば、卒業後に1年ほどインターンのような形で実践訓練ができるはずだった。ところが、私はフラーを中退し、その時点ではチャックがやっているスクール・オブ・ミニストリーの学生になっている。ここは内容的には非常に質が高かったが、規模としては学校というより私塾に近かった。そのため、学生ビザを取得するために必要なさまざまな要件――学校の延べ床面積とか、蔵書数とか――を満たしていなかったので、B1ビザ(商用/観光用)に変更していたのである。
思いがけずビザを失ってしまった私は、それから7カ月間、スーツケース2個と共に日本で足止めを食らうことになってしまった。幸い妻と娘も日本に帰ってきていたので家族が離れ離れになることはなかったが、米国での家賃750ドルを払い続けながら、そこに戻ることができなくなったのだ。
日系米国人の弁護士を雇って交渉してもらうために大量の書類を送って返事を待っていると、フラー神学校に戻るのならビザを出すという話になった。そこで仕方なく1学期だけフラーに戻ることにしたのだが、折あしくその時、米国大使館がストライキをしていた。すると領事が、職員が誰も出勤していない大使館に自ら出向いて行って自分で機械を操作して、私たち一家のためにビザを発行してくれた。弁護士はそれを聞いて「奇跡だ」と言っていたが、そのようにして私たちはようやく米国に戻ることができるようになったのだ。
新しい仕事の始まり
日本で7カ月足止めを食っている間、私たちは最初の頃は私の実家で暮らしていた。しかし、実家には親戚が一緒に住んでいて、3カ月もすると私たちは追い出されてしまった。それで行く所がなくなって転がり込んだのが、私と妻が通っていたA教会である。あとで聞いた話だが、実はその頃、A教会では副牧師が辞めた直後だったらしい。A教会の主任牧師は、私たち家族を教会に住ませ、ここの副牧師になって、自分の後継者になってくれないか、と言ってきた。
そこで私はビザを再発行してもらってからいったん米国に帰り、1学期分だけフラーに通い、チャックにもきちんと事の次第を報告し、米国での生活をたたんで帰国したのである。こうして私のA教会副牧師としての生活が始まった。
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