エイブはアンダーソン・クリークで船頭をするうちに、いつも大きな汽船を眺めては思うのだった。(このオハイオ川を下ればもっと大きなミシシッピー川に出るんだ。その河口にはニューオーリンズという大きな町があるそうだが、一度行ってみたいなあ)
その町へ行ったら、何だか自分の人生が開けるような気がした。
1828年。船頭になって3年目のことだった。エイブはゲントリー・ビルという村のゲントリーという商人と知り合いになり、彼の店で1カ月7ドルで働くことになった。ゲントリーは、ことのほかエイブが気に入って、仕入れから販売まで全てを任せていたが、ある日、こんなことを言った。
「私の息子のアレンを連れてオハイオ川を下って商品を売ってきてくれないか。港に着くたびに商品を売ってニューオーリンズまで行けば、荷はさばけるだろう」
そして給料を8ドルにしてくれると言うのだ。かねがねニューオーリンズに行きたくてたまらなかったエイブは、大喜びでこの仕事を引き受けた。
こうして暖かな春の日。エイブは農場で作った作物やバター、綿織物などを船に積み込み、アレンと共に出発した。旅は楽しいものだった。彼らは川岸がある町に着くたびに船を寄せ、バター、チーズ、ハム、果物などを売った。幾つかの港を過ぎるうちに、商品は半分以上も売れてしまった。2人はニューオーリンズまで行くつもりでいた。
そのうち、砂糖の産地ルイジアナの沿岸に着いた。夜になってしまい、月はこうこうとミシシッピー川を照らしていた。2人は船の中でぐっすりと眠っていた。
真夜中、はっとエイブは目を覚ました。川岸の木陰に怪しい人影が動いている。エイブはとっさに眠っているアレンを揺り起こした。「アレンさん、怪しい者が・・・」
その時、船の荷物を狙う5、6人の盗賊がナイフやピストルを持って船に上がろうとしていた。エイブは財布をアレンに渡し、隠れているように言った。
やがて男たちは船に上がってきた。一人がピストルを向けた。その瞬間、エイブは彼に飛びつき、ピストルを川に叩き込んでから相手を川の中に投げ込んだ。次の男は、ナイフをかまえて飛びついてきたので、相手の腕を逆にひねってナイフをもぎ取り、同じように川の中に投げ込んだ。
「手ごわいぞ。逃げろ!」彼らは川の中に放り込まれたため、ぬれねずみになって逃げていってしまった。
「エイブさん、ありがとう」。アレンは心から礼を言った。「おかげで命拾いしました。何とあなたは強いんでしょう」。その後2人は、ルイジアナからニューオーリンズを回って全ての商品を売り尽くして帰ってきた。
ゲントリーは、思いのほかのもうけを持って帰ってきたエイブに言った。「君のような商才を持った男とやればこの店は大繁盛だろう。どうかね。私と共同経営で店をやらないかね」
エイブはこの申し出を非常にうれしく思ったが、その矢先、父のトーマスから帰ってほしいという手紙が届いた。
「・・・エイブよ、今この家はかつてないほどの困窮に見舞われている。土地はやせ、作物は思うように育たない。しかも疫病がはやり、家畜は次々に死んでしまったのだ。もし事情が許せば、帰ってきてくれないか・・・父」
エイブは、ゲントリーと共同で商売をやることで希望に胸をふくらませていたのだが、この父からの手紙を見てそれを断念し、故郷に帰ることにした。そして父を助けて再び一生懸命に働き始めた。しかし、その矢先、悲しいことが起きた。姉のサラはすでに結婚して隣村に移り住んでいたのだが、突然亡くなったという知らせが届いたのである。
1830年2月。川の北岸サンガモンに移住していたエイブの従兄ジョン・ハンクスから手紙がきた。土地も肥え、気候も良く、作物の収穫も多いから、移ってこないかという誘いだった。一家はそこに移住することを決意した。
出発の前日の夕方。雑木林の奥にある母ナンシーと姉サラの墓に出向いたエイブは、そこで祈りをささげていた。そこへ、親友のジョンがやって来てお別れにとモミの若木を差し出した。
「ありがとう。君のことは忘れないよ」。エイブはこう言って2人一緒に植樹した。これはずっと後に「リンカーンの記念樹」といわれ、国宝となったものであった。
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<あとがき>
ミシシッピー河口の商業都市ニューオーリンズは当時、米国の若者たちの憧れの町だったようです。エイブも船頭をしている頃から、いつかはこの町へ行ってみたいと思っていました。
そんな時、思ってもみないチャンスがやってきました。ゲントリーという商人と知り合いになり、その店で働くようになったエイブは、ある時ゲントリーの息子アレンと共に店の商品を売りさばくためにこの町へ行くことになりました。
この時は単に商用を果たして帰ってきただけでしたが、実はこのニューオーリンズの町は、後に彼が「奴隷制度廃止」の悲願を果たすために神が用意された修練の場だったのです。この町の入り口で悲惨な奴隷市を見たことから、彼は生涯かけてこの呪わしい制度と闘う決意をしたのでした。
この後、エイブは愛する姉サラの死という悲しみの中にあって、家族と共に新しい生活を切り開くためにイリノイ州へと移住することになります。彼の人生後半の幕開けでした。
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栗栖ひろみ(くりす・ひろみ)
1942年東京生まれ。早稲田大学夜間部卒業。80〜82年『少年少女信仰偉人伝・全8巻』(日本教会新報社)、82〜83年『信仰に生きた人たち・全8巻』(ニューライフ出版社)刊行。以後、伝記や評伝の執筆を続け、90年『医者ルカの物語』(ロバ通信社)刊行。また、猫のファンタジーを書き始め、2012年『猫おばさんのコーヒーショップ』で日本動物児童文学奨励賞を受賞。15年より、クリスチャントゥデイに中・高生向けの信仰偉人伝のWeb連載を始める。20年『ジーザス ラブズ ミー 日本を愛したJ・ヘボンの生涯』(一粒社)刊行。現在もキリスト教書、伝記、ファンタジーの分野で執筆を続けている。