1830年3月1日。リンカーン一家はイリノイ州に向かって出発した。ほろ馬車に家財道具を積み込み、一台は馬、もう一台は牛に引かせて荒野をどこまでも行った。
父トーマスはすっかり年を取り、寂しげに見えた。それを見て、エイブはできるだけ父の手助けをして楽をさせてあげたいと思うのだった。
そのうちに、小雪がちらちら舞い降りてきた。その時、エイブの目は巣から落ちてピィピィと鳴くひなの上に止まった。彼はほろ車から降りると、小鳥をポケットに入れて木に登り、巣に戻してやったのだった。
エイブは、いつでもどこにいても、小さな者や弱い者に対する気遣いを忘れなかったのである。
2週間ばかりの苦しい旅の末、一家はイリノイ州のサンガモン川北岸に着いた。また以前のように父トーマスとエイブ親子は、斧をふるって木を切り倒し、新しい丸木小屋を建てた。
小屋ができると、すきを肩にして荒れた地に出た。そして枯れ草を焼いて土を起こし、すきで土の塊を打ち返して耕すのだった。畑ができて、種をまくと、野獣に荒らされないように杭を打ち、柵を作った。
もうエイブは少年ではなく、たくましい若者になっていた。彼は一日に500本の木を切って皆を驚かせたのだった。彼には「棒ぐい割りのエイブ」というニックネームが付き、村中の尊敬を集めた。
その翌年、1831年春のこと。母のサリーは父に言った。「あなた、エイブはもう22歳です。独り立ちする年ですわ。思うんですけれど、あの子は農夫よりもっといい仕事に就けるんじゃないかしら」
父トーマスはうなずいた。「そうだな。いつまでも引き止めておいてはいけないな」。そして、エイブを呼んで言った。「おまえはもう私らの手を離れ、好きな道を選んでいいぞ」
エイブの目が輝いた。「お父さん、お母さん。自分は前からニューオーリンズに行って何か商売でもしたいと思っていたんです。そうして自活しながら法律の勉強をして、弁護士になりたいんだ!」
「そうか。おまえがそう決めたのなら、そうするがいい」。そして、父と母は彼のために祈ってから旅立たせたのだった。
エイブはスプリングフィールドの雑貨商デントン・オフェット老人と知り合いだったので、頼まれて彼の店の商品を持ってニューオーリンズに旅立つことになった。エイブの両親は同じ日、イリノイ州のコールズ郡に引っ越すことになった。
エイブは、2人の仲間ジョン・ハンクスとジョン・ジョンストンと一緒に出発した。彼らはハム、小麦、トウモロコシなどの食料を積んでサンガモン川を船で下っていった。
こぎにくい船だったが、何とかオールを操っているうちに暗礁に乗り上げてしまった。へさきが宙に浮き、水がどんどん流れ込んでくる。川岸に人々が集まってきてわいわい騒いでいたが、一人が助け舟を出した。
エイブは落ち着いて積み荷をその舟に移し、自分の船から水をかき出してへさきが元に戻ると、再び積み荷を元に戻して進み始めた。
村を出てまだ8キロの所だったので、騒ぎを聞いてオフェット老人が心配してやって来た。「あの男なら、どんな難しいことも立派にやってのける。エイブは素晴らしい若者だ」。老人は、会う人ごとにエイブの自慢話をするのだった。
積み荷を元に戻した船は、サンガモン川を下り、イリノイ州へ。そして、ついにミシシッピー川に出た。ここで一行は、大きな商船に乗り換えてニューオーリンズに向かうことになった。乗組員は若者が多かったが、退屈なので冗談口をたたいたり、酒を飲んだりしていた。しかし、エイブは一人、読書ばかりしていた。
彼は『英文法』の本を読んでいたのである。将来弁護士になろうという固い意志は変わらなかったので、正しい言葉遣いを勉強していたのである。乗組員たちは、代わる代わるエイブを誘ったが、彼は相手にしなかった。
(どんなことがあっても、自分は一滴も酒を飲まないぞ。酒は血管を駆け巡って、肉を焼き、魂をただれさせる悪魔の水だからだ。自分には神様と約束した大切な任務があるのだから)
エイブは、心の中でつぶやくのだった。
*
<あとがき>
エイブは家族と共に今度はイリノイ州に移り住むことになりました。この頃になると、父親のトーマスもすっかり年を取り、寂しげに見えたので、エイブはそんな父を助けて、この地でも力いっぱい農作業にいそしむのでした。
もうエイブは少年ではなく、たくましい体つきをした若者になっていました。彼は畑仕事で一日に500本もの木を切り、薪を作ったので「棒ぐい割りのエイブ」というニックネームで呼ばれました。
その翌年。両親は相談し、そろそろエイブを自分たちの手から放し、独立させようと決意しました。エイブはもう将来の目標をはっきりと決めていました。ニューオーリンズに行って自活しながら、弁護士になるための勉強をするつもりだったのです。
そして彼は、スプリングフィールドに着くと、雑貨屋のオフェットと知り合いになり、彼の店で働くことになりました。かくしてエイブは、いよいよ運命の町ニューオーリンズへと近づいていきます。
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栗栖ひろみ(くりす・ひろみ)
1942年東京生まれ。早稲田大学夜間部卒業。80〜82年『少年少女信仰偉人伝・全8巻』(日本教会新報社)、82〜83年『信仰に生きた人たち・全8巻』(ニューライフ出版社)刊行。以後、伝記や評伝の執筆を続け、90年『医者ルカの物語』(ロバ通信社)刊行。また、猫のファンタジーを書き始め、2012年『猫おばさんのコーヒーショップ』で日本動物児童文学奨励賞を受賞。15年より、クリスチャントゥデイに中・高生向けの信仰偉人伝のWeb連載を始める。20年『ジーザス ラブズ ミー 日本を愛したJ・ヘボンの生涯』(一粒社)刊行。現在もキリスト教書、伝記、ファンタジーの分野で執筆を続けている。