こうして、昼は父を助けて森や畑で働き、夜は遅くまで勉強に励むエイブを父も母も誇りに思っていたが、時々むちゃをするのを見ると体を気遣うのであった。この頃、エイブは法律関係の本を読むようになり、今『イリノイ州法規』という本に挑戦していた。大変難しい内容であったが、熱心に取り組むうちに少しずつ国の法律が分かってきた。
実はこの本も農作業を手伝いに行ったある農家からもらってきたのだった。エイブの本好きはこのあたりで有名になっており、『イソップ物語』『ロビンソン漂流記』『フランクリン自伝』などを一心に読み、読んだ本は全て暗記するほど彼の血となり肉となったのであった。そのうち、エイブはただ法律の本を読むだけでなく、時々裁判を傍聴するために裁判所にも足を運ぶようになった。
そんな時、ブーンヴィルという町の裁判所にブレッキンリッジという有名な弁護士が来てある事件を弁護することを聞いた彼は、幼友達のジョンと一緒に出かけていった。これは「ウィルキンソン裁判」といって、後々まで人々の記憶に残るものとなった。ウィルキンソンという老人が他人の畑の作物を盗んだ罪で裁かれることになったのであるが、当時、農民が他人の畑に侵入して作物を盗むということには厳罰が課せられていたのだった。
いよいよ公判となると、ブレッキンリッジ弁護士は立ち上がり、こう弁護したのである。「ウィルキンソンは片目がつぶれ、もう片方もほとんど見えない70歳の老人であります。彼の一人息子とその嫁は昨年伝染病に感染して死にました。そして5歳と3歳になる孫が残され、ウィルキンソン老人は2人を養っていかねばならなくなりました。貧困にさいなまれ、働き口も見つからず、しかも目も見えない彼に何ができましょう。それで悪いと知りつつ、他人の畑に忍び入り、畑の作物を盗んだのです。そうしなければ、孫たちを養えなかったからです。そこでウィルキンソン老人は、小麦の穂を少しずつ、少しずつ盗んで孫に食べさせたのです。どうか裁判長、情けある裁判をお願いいたします」。こう述べてから彼は、ボロを着た2人の子どもを抱き上げて傍聴人に見せた。すると、傍聴席にいた者は皆泣き出したのである。
やがて判決を申し渡す時が来ると、裁判長は涙を拭い、立ち上がって宣言した。「事情はよく分かった。同情すべき点はあるが法を曲げることはできない。ウィルキンソン老人に1カ月の禁錮を申し渡す」。それから、今度は聴衆に向かって言った。「しかし、今皆さんにお願いする。その間、どうかこの2人の子どもの面倒を見、大切に扱ってほしい。それから、ウィルキンソン老人が出所したら、村の教会の門番にでも雇ってあげられるようにしてほしい。そうすれば、老人と孫たちは一生安らかに暮らすことができるだろうから。これは裁判長としての判決ではない。私一人の心からの願いであり、皆さんの温情を心から期待するものであります」
そして、裁判長は聴衆に向かって深々と頭を下げたのである。聴衆は思わず歓声を上げ、拍手は会場に響き渡った。エイブは感動のあまり、しばらく席を立つことができなかった。まだ彼が小さいとき、最初の母ナンシーがこう言ったことがあった。「エイブ。神様の義(正しさ)と愛は一つなのよ。だから愛のない裁きはないの」。今、彼はしみじみその意味が分かるような気がした。(そうだ。法は絶対曲げてはならないもので、悪に対しては裁きが必要だ。けれども、その中に愛がなければならないのだ)
「今日の裁判はいろいろ勉強になったね」。友人のジョンが言うと、エイブは深くうなずいた。「ああ。法律というものは、不幸な人を保護するためにできたものだということが分かったよ。そうして、弁護士というのは弱い者や気の毒な人の味方をしてあげられる職業だということも」。「エイブ。ぼくはとても弁護士なんかになれないが、君ならなれる。君にぴったりの職業だよ。でも、それにはこんな寂しい場所に引っ込んでいてはだめだ。もっと広い世間に出て、たくさんの人と会ったり、経験を積まなけりゃ生きた勉強はできないよ」
エイブは親友の忠告を受け、考えた末に、オハイオ州の渡し舟の船頭になる決心をした。それは、いろいろな客と話をすることによって世間の様子も分かるし、政界の事情も分かるし、何よりも稼いだお金で、いろいろな本を買って勉強ができるからであった。
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<あとがき>
エイブが弁護士を志すようになったのは、社会の片隅で苦しんでいる貧しい人や弱い立場の人を助けたいという願いからですが、彼の心に強い決意が生まれたのは、有名な「ウィルキンソン裁判」を傍聴したのがきっかけだといわれています。
やむを得ない事情から隣の農家の作物を盗んだウィルキンソンという老人に対し、ブレッキンリッジという弁護士が温情ある弁護をし、裁判長も、法は曲げられないが、1カ月の禁錮となった老人が出所するまで孫たちの世話をしてほしいことと、彼のために勤め口を見つけてやってほしいことを、頭を下げて頼むのでした。
この裁判に感動したエイブは、法律というものは、不幸な人を保護するためにあることをしみじみ思うのでした。彼の胸には、亡き母ナンシーがよく口にしていた「神様の義と愛は一つだから、愛のない裁きはないのです」という言葉が刻みつけられていたのです。私たちもこの言葉を心に銘記し、隣人に対して親切で寛容でありたいと思います。
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栗栖ひろみ(くりす・ひろみ)
1942年東京生まれ。早稲田大学夜間部卒業。80〜82年『少年少女信仰偉人伝・全8巻』(日本教会新報社)、82〜83年『信仰に生きた人たち・全8巻』(ニューライフ出版社)刊行。以後、伝記や評伝の執筆を続け、90年『医者ルカの物語』(ロバ通信社)刊行。また、猫のファンタジーを書き始め、2012年『猫おばさんのコーヒーショップ』で日本動物児童文学奨励賞を受賞。15年より、クリスチャントゥデイに中・高生向けの信仰偉人伝のWeb連載を始める。20年『ジーザス ラブズ ミー 日本を愛したJ・ヘボンの生涯』(一粒社)刊行。現在もキリスト教書、伝記、ファンタジーの分野で執筆を続けている。