最初の財産となった『ワシントン伝』を手にしたエイブは、畑仕事の最中も、薪割りをしているときも、いつもこれを読んでいた。
「アメリカに、こんな偉い人がいたんだなあ」。彼は、何度もつぶやくのだった。
そんなある初夏の夕暮れだった。エイブは畑仕事に疲れた肩にくわをかついで家路をたどっていた。すると、トウモロコシ畑の片隅で、男の子たちが数人、ワイワイ言いながら騒いでいる。
何をしているのだろうとのぞき込むと、15、6歳くらいの少年たちが小さなハリネズミをいじめて遊んでいた。彼らは木の枝で突いたり、蹴ったり、踏んづけたりして叫んだ。「ほら、駆けろ!駆けるんだ!」ハリネズミはもうかなり弱っており、ヨタヨタと少し動くと、身を守るように丸くなってしまった。
「怠け者め!どうだ!走ってみろ!」体の大きな子が、棒で力いっぱい打ちすえた。するとハリネズミは、おびえたようにチョロチョロと走ったが、すぐに転がってしまった。
「死んだふりをしているぞ!」その時、顔にあばたのある子が憎々しそうに顔を歪めると、燃えさしを持っていた仲間の手からそれを奪い取り、ハリネズミの背中に押しつけた。すると、ハリネズミは飛び上がり、走り出した。しかし、すぐに動かなくなってしまった。これを見ていた別の仲間が、自分にもやらせろと言った。
これを見ているうちに、エイブの心の中から激しい怒りが込み上げてきた。こうした激しい感情を燃やすのは生まれて初めてだった。
「もうやめろ!かわいそうに」。彼は少年たちをかき分けて中に入った。「かわいそうなものか。これはおもちゃなんだぞ。こんなハリネズミなんか死んだっていいんだ」。一人が唇を歪めて言った。
「おい!よく聞け」。エイブはその子の腕をつかむと、じっとその顔を見つめて言った。「生きものは神様がお造りになったものだぞ。人間が遊び半分に殺していいわけがない」
それから、また燃えさしでハリネズミの背中を突こうとした子に飛びかかると、その手から燃えさしをもぎとって遠くに投げた。少年たちは、一度にエイブに踊りかかってきて、そのまま激しい乱闘になった。
エイブは一人の頬を殴りつけ、別の一人を投げ飛ばした。「さあ、いくらでもかかってこい!」彼は次々に飛びかかってくる少年を投げながら叫んだ。しかし、彼はどんな場合でも相手にけがをさせることはすまいと心に誓っていた。彼らは起き上がると、逃げ去っていった。
「何をしているの、エイブ。弱い者をいじめてはいけませんよ」。気が付くと、すぐそばに姉のサラが立っていた。「違うよ、姉さん。それはあいつらに言ってやらなきゃいけないんだ」。そう言った瞬間、彼の目から涙があふれ出してきた。「あいつらは、このかわいそうな生きものにひどいことをしたんだもの」
「まあ、かわいそうに」。サラは、丸くなって動かないハリネズミを見て言った。そして2人は、ハリネズミを帽子の中にそっと入れて家に持ち帰った。それから母親の薬箱からやけどによく効く薬をもらって背中に塗ってやったり、水にひたしたタオルの上に置いてやったりと世話をした。
ハリネズミは、一時は身動きしたり、手足を伸ばしたりしたが、やがて間もなく死んでしまった。サラとエイブは、畑の片隅にその亡きがらを埋めてやった。
その時だった。エイブの体内から今まで知らなかった激情が湧き上がってきたのは。それは、身を守るすべも知らない弱いものを虐げる人間に対する憤りと、どんなことがあろうと身をていしてかわいそうな生きものを守り抜こうという決意だった。
その翌日。エイブが畑仕事を終えて帰ろうとすると、家が見えるあたりの道端に、あのあばた面の少年と2人の仲間が立っているのが見えた。またけんかを仕掛けてくるのかと身構えたエイブに、彼らはつかつかと近寄ってきてこう言ったのである。
「弱い生きものをいじめることがどんなに卑劣で悪いことか自分たちはよく分かった。昨日のことはどうか赦(ゆる)してくれたまえ」
「分かってくれればいいんだよ」。エイブは、がっしりした手を差し出して彼らと握手をしたのだった。
*
<あとがき>
ある人物の人柄を評価する場合、私たちはとかく、その人が生きものに対して優しい心を持っているか――ということを基準として考えてしまいます。
というのは、人間に対して親切であり、弱者に寄り添うことのできる人というのは、必ず人間以外の生きもの(動物や小鳥など)に対しても配慮できる寛容な心を持っているからです。
エイブ・リンカーンは成人してから弁護士として弱い立場の人に味方し、ほとんど料金を取らずに弁護してあげたといわれています。そして、大統領になったとき、白人のために虐待されている黒人奴隷たちを解放するという偉業を成し遂げたのですが、それというのも、少年の頃から、弱者への虐待を絶対に許さない正義感を強く持っていたからでありましょう。
ここに紹介した小さなハリネズミの命を助けようとした逸話がそれを物語っています。彼の燃えるような人道の火は、いじめっ子たちの心を打ち、改心させるだけの力があったのです。
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栗栖ひろみ(くりす・ひろみ)
1942年東京生まれ。早稲田大学夜間部卒業。80〜82年『少年少女信仰偉人伝・全8巻』(日本教会新報社)、82〜83年『信仰に生きた人たち・全8巻』(ニューライフ出版社)刊行。以後、伝記や評伝の執筆を続け、90年『医者ルカの物語』(ロバ通信社)刊行。また、猫のファンタジーを書き始め、2012年『猫おばさんのコーヒーショップ』で日本動物児童文学奨励賞を受賞。15年より、クリスチャントゥデイに中・高生向けの信仰偉人伝のWeb連載を始める。20年『ジーザス ラブズ ミー 日本を愛したJ・ヘボンの生涯』(一粒社)刊行。現在もキリスト教書、伝記、ファンタジーの分野で執筆を続けている。