エイブは、見知らぬ女の子が読んでいた『ワシントン伝』のことが頭から離れなかった。「アメリカを独立に導いた人だって? 何て素晴らしい人だろう。自分も何とかしてその本を読みたいなあ」
そのうちに、隣村の農家のクロフォードという人が大変な読書家で、自分の家に大きな書庫を置いてたくさんの本を持っているという話がエイブの耳に入った。取るも取りあえず、彼は半日がかりでクロフォードを訪ねた。
「あなたがたくさんの本をお持ちだと聞いたものだから来ました。『ワシントン伝』はお持ちですか?」「ああ、あるよ。読みたけりゃ、中に入って読んでいいよ」
クロフォードは、頬を紅潮させている少年を中に導き入れると椅子にかけさせ、『ワシントン伝』を持ってきて置いた。エイブは時のたつのも忘れてその本を読みふけり、気が付くとあたりは暗くなっていた。
「貸してあげるから、持って帰っていいよ。そうして、すっかり読み終えたら返してくれればいい」。クロフォードは親切に言った。
「本当ですか。ありがとうございます、クロフォードさん。では、読み終えたら返しに来ます」。そう言うと、エイブは帰って行った。
それから2週間ほどたったある晩のこと、しくしく泣く声が聞こえるので、姉のサラが起き出すと、屋根裏の隅に鹿の毛皮を敷いた寝床に座ってエイブが泣いているではないか。
心配して尋ねると、クロフォード氏から借りた『ワシントン伝』を毎晩窓のそばに置いて読んでいたが、眠っている間に雨漏りがして本がずぶぬれになってしまったのだという。
翌朝、家族に話すと、父のトーマスは言った。「正直に話してクロフォードさんに謝りなさい。そうして――そうだな、秋の収穫中人手がなくて困っているだろうから3、4日手伝っておいで」
そこでエイブは隣村のクロフォードの所に行って言った。「クロフォードさん、大切な本を雨漏りでぬらしてしまいました。ごめんなさい。代わりに農業の手伝いをしますから、どうか働かせてください」
するとクロフォードは穴のあくほどエイブを見つめていたが、突然顔をくしゃくしゃにして泣き出した。そして、首を振り振り言った。「こんな正直でいい子、自分も欲しいものだなあ」
それからエイブは3日の間、クロフォードの畑で夢中で働いた。そして3日間の農作業が終わったとき、クロフォードはエイブに小遣いを渡して言った。「この『ワシントン伝』もきみにあげよう。その代わり、約束してほしい。将来きっとワシントンみたいな立派な人になってくれよ」
「はいっ!」エイブは顔を輝かして言った。「必ず、よく勉強して立派な人になります」。それから、家までの道をほとんど飛ぶようにして帰ってきた。
家の近くまで来ると、家の前に母サリーと姉のサラが心配そうに立っているのが見えた。
「母さん、ただいま!」エイブは母のふところに飛び込んだ。「クロフォードさんはお小遣いをくれて、3日の間遊んでおいでと言ったけど、働かせてくださいと言ったんだ。そうして一生懸命麦刈りを手伝ってきた。そうしたら帰るときにね、クロフォードさんはこの本をくれて言ったんだ。将来ワシントンみたいに立派な人になっておくれ――ってね」
その晩は、一家で食事を取った後、皆でアメリカにこの後もワシントンのような立派な指導者が出ますようにと祈りをささげたのだった。
その晩も、いつものようにエイブは枕の下に『ワシントン伝』を入れて眠ったが、その耳にあのクロフォードの言葉がよみがえってくるのだった。(うんと勉強して、ワシントンみたいな立派な人になってくれよ)
ワシントンはアメリカを立派な国になるように導いた人だ。そして、いろいろな人種、いろいろなかわいそうな人たちもいるこの国を一つにして皆が仲良く暮らせるようにした人だ。何と立派な信念だろう。自分もうんと勉強してワシントンみたいな人になるんだ。――エイブは固く誓うのだった。
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<あとがき>
力持ちで誰にも優しいエイブは、村中の人気者でしたが、この頃は「正直エイブ」というニックネームで呼ばれていました。彼は、誰もが驚くほど正直でした。今回紹介したエピソードもその一つで、彼の面影がしのばれます。
エイブは、隣村の農家のクロフォードという人が『ワシントン伝』を持っていると聞き、半日がかりで歩いて借りてきました。ところが、大失敗をしてしまいます。大切なその本を窓際に置いて寝たものですから、寝ている間に雨漏りがして大切な本をぬらしてしまったのです。
彼は、クロフォード氏の所に行って正直にわけを話して心からお詫びをしてから、3日間農業の手伝いをすることを申し出たのです。
すると、感動したクロフォード氏は、エイブにその本をくれてから言うのでした。「将来きっとワシントンのように立派な人になるんだよ」と。その約束どおり、エイブは実際大統領にまでのぼりつめ、政界で立派な働きをすることになったのでした。
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栗栖ひろみ(くりす・ひろみ)
1942年東京生まれ。早稲田大学夜間部卒業。80〜82年『少年少女信仰偉人伝・全8巻』(日本教会新報社)、82〜83年『信仰に生きた人たち・全8巻』(ニューライフ出版社)刊行。以後、伝記や評伝の執筆を続け、90年『医者ルカの物語』(ロバ通信社)刊行。また、猫のファンタジーを書き始め、2012年『猫おばさんのコーヒーショップ』で日本動物児童文学奨励賞を受賞。15年より、クリスチャントゥデイに中・高生向けの信仰偉人伝のWeb連載を始める。20年『ジーザス ラブズ ミー 日本を愛したJ・ヘボンの生涯』(一粒社)刊行。現在もキリスト教書、伝記、ファンタジーの分野で執筆を続けている。