だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。空の鳥をよく見なさい。種も蒔(ま)かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。
あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡ぎもしない。しかし、言っておく。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日は生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、信仰の薄い者たちよ。
だから、「何を食べようか」「何を飲もうか」「何を着ようか」と言って、思い悩むな。それはみな、異邦人が切に求めているものだ。あなたがたの天の父は、これらのものがみなあなたがたに必要なことをご存じである。何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる。だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。(新約聖書・マタイによる福音書6章25〜34節)
コロナ禍の影で
先日、「コロナ禍で5歳児に約4か月の発達の遅れ」というショッキングなニュースが駆け巡りました。京都大学医学研究科の佐藤豪竜(こうりゅう)助教らによる研究報告です。詳細な分析や考察などはこれからも追って続けられるだろうと思います。
保育や教育の現場で今まで行ってきたさまざまなことが、感染防止の観点から縮小や中止へと追い込まれてきたわけですから、保育職であれ、教育職であれ、確かにコロナ禍は子どもたちの成長や発達に悪影響を与えたであろうと思わざるを得ないと思います。
コロナ禍よりはるか以前から
しかしその一方で、コロナ禍よりはるか以前からささやかれていたこともあります。それは、子どもたちがどんどん幼くなっていないか?という問いです。昔だったらできていたことができない、態度や意欲が幼い子どものようだなどという声は、高校や大学の先生たちからちょくちょく耳にしていました。ある大学の教授が新入学生を指して、「今の学生たちって中学7年生みたいなんだよ」と私に愚痴をこぼしていたことを思い出します。
しかし、よく考えてみれば、いつでも若い世代は、中高年から「新人類」とか「宇宙人」とか言われていたわけです。実は、文明が発展するのに比例して、子どもの発達は鈍化していく傾向が見られるということがいえます。
明治以前を考えれば、12歳にもなれば丁稚奉公に出されたり、家業を手伝わされたりすることは当たり前でした。戦後も「金の卵」と呼ばれ、中卒で都市部に働きに出る子どもたちがたくさんいました。こうした時代からすれば、今の子どもたちが非常に幼く見えるのは仕方がないといわざるを得ません。
後戻りできなくなっていること
以下の昭和7年の広告を見てください。西暦でいえば、1932年の広告です。
「せめて月二回は!髪を洗って下さい、汚れた髪は衛生に悪いばかりでなく、他迷惑でございます。着物の儘(まま)で簡單(かんたん)に洗へてゆすぎも乾きも早い洗髪料です」と書いてあります。当時の多くの人たちにとって、髪を洗うことは年に数回の行事だったようです。現代の私たちには想像もつきません。
人間は生活が進歩すると、後戻りができません。例えば、携帯電話のない時代、友達の家の電話番号はほとんど暗記していましたが、携帯電話に電話番号が登録できるようになってからは、覚えようとも思わなくなりました。また、一般家庭に洋式トイレが標準的に設置されるようになると、和式トイレで排便ができないという人も出てきました。
認定こども園の園長時代、園で餅つきをしていましたが、招待した老人会の人たちに、餅のつき方を知らないと言われ驚いたことがあります。しかし、考えてみれば当然のことです。私だって将来、「老人なんだから、草鞋(わらじ)を作ってくれ」と言われても作れるわけがありません。餅は売っているものを買えばいい、つきたての餅を食べたければ餅つき機があるのです。
このように、衛生に対する意識が大きく変わり、生活レベルや利便性が向上するのと同時に、ひっそりと失われていくものがあることも、私たちはしっかりと認識しなければなりません。そして、失われてはいけないものを守り、伝え続ける努力を怠らないようにしなければならないのです。
お泊まり保育を再開できない
ここ最近、お泊まり保育を再開しない保育施設が増えていると耳にすることが多くなりました。新型コロナウイルス感染症は5類扱いになり、行動制限も撤廃され、マスクを外してもよいことになりましたが、それでもなお、保育現場では警戒感が残っています。多くの施設では、保育職のマスクの着用はまだ継続しているようです。そんな中、果たしてお泊まり保育を再開してもよいだろうか、という戸惑いがあると思います。
その一方で、お泊まり保育はかねてから、保育職にとって非常に負担の大きな行事であることも事実でした。10〜20人の5歳児を丸24時間まとめ続けるわけですから、夜も眠れませんし、体力的にもしんどいことは確かです。そういう状況にあってコロナ禍により、お泊まり保育を3年も中止せざるを得なくなったわけですから、「さあ、再開しますよ」と言われても、なかなかやろうとは思えない現実がそこには見え隠れします。
保護者側からも「本当に再開しても大丈夫?」といった声が聞こえるのであれば、もう再開しない方がいいという結論しか選び取れないわけです。このような状況を私は「保育の潔癖化」と名付けました。
潔癖化する保育
私が保育の世界に関わるようになって15年、その中で保育が「洗練」されてきたのは事実です。しかしその一方で、「潔癖」とも呼べる状況が見え隠れしていました。そして今、コロナ禍でとどめを刺されたというような状況になっていると思います。
この数年、保育施設におけるさまざまなハラスメント、虐待などがクローズアップされています。そして、それに対応するための研修会があちこちで催されています。しかし、「どうしたら虐待といわれないか」「ハラスメントを防ぐにはどうしたらよいか」といったニーズに応える研修の中身は、「ハウツー講座」になってしまっている場合が少なくない現状があります。
ここ数年、保育施設や保育職が求められ続けたのは、「感染させるな、けがをさせるな、保護者ともめるな」が全てといっても過言ではない状態でした。そういう状況では、保育が必然的に潔癖化する状況であったと言わざるを得ません。(続く)
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