9月5日、炎天下のバスに、3歳の女児が5時間以上にわたって置き去りにされ、亡くなってしまうという痛ましい事故が起きました。皆さんの記憶にもまだ生々しく残っていると思います。繰り返されるこの手の事故は、なぜ起こるのか。私は、保育システムに根強く残る慣習にその原因があると思っています。
置き去り事故は当たり前に起きている?
送迎バスの場合、熱中死という悲劇的な結末に直結するため、ニュースになります。しかし、表面化していないだけで、実は頻繁に起きているのです。園児置き去りはバスの中だけの話ではないということです。
給食を食べようとしたら、子どもが一人部屋に残って遊んでいたといった他愛のないものから、遠足時に帰りのバスに乗せ忘れたという結構際どいことも起きています。すぐに気付ける状態であったために、事なきを得ているだけの話です。
つまり、園児置き去りは発生しやすいのです。そのことを肝に命じないまま、対策を進めてしまっていることが問題であると私は見ています。今年2月には、米国で保育者が園内に園児を置き去りにしたまま鍵を締め、帰宅してしまったということが報じられました(記事)。
保護という安全神話
保育システムでは、園児は「保護されるべき対象として管理されている」という大前提があります。今では、新型コロナウイルス対策なども加わり、管理すべき事柄が山積しています。国が求めるマニュアルも、事故防止、感染防止、突発死防止、不審者対策、防火、地震、水害、沿岸部にあっては津波対策などがあり、それに、送迎時置き去り対策が加わるのです。園児は、全ての状況において安全に管理されなければならない存在と見られているわけです。
私は、自動ロックの玄関が象徴的であると思っています。玄関の自動ロック機構は、園児の保安管理上必須であるとして、多くの園が採用しています。しかし、自動ロック機構は「子どもを閉じ込める機構」でもあるのです。意地の悪い言い方をすれば、「大人が勝手に安全だと設定したエリアを囲うのが自動ロック機構」だということです。
鉄壁だと思い込むセキュリティーがはらむ危険性
しかし先述の通り、その自動ロック機構の内側では、当たり前のように園児置き去りや、その他のヒヤリハットが起きているわけです。それは、保育者の盲点でもあります。「自動ロック機構の内側は安全である」という思い込みが、イレギュラーな園児たちの動きを見えなくしてしまうのです。たとえ園児が1人見当たらないとしても、園内には確実にいるはずという思い込みを生んでしまうのです。
今回の事件では、出欠確認の時、給食の時、連絡帳記載の時など、保育中のさまざまな場面で気付くきっかけがあったとされています。しかし、それらのどのタイミングでも確認をするに至らなかった背景には、「自動ロック機構で囲われた安全エリアの中にいるはず」という保育者の思い込みがあったはずです。「出席管理システムにその状況が示されている以上、そうなのだ」という思い込みです。そしてこの思い込みを後押ししたのが、「今までもそうだったから、どこかにいるさ。少し様子を見よう」という経験則によるものであったことは想像に難くありません。
しかも、現在の保育施設はどこでもシフト制による保育者の出入りがあります。担当者の入れ替わり時の情報伝達を考えてみれば、「出席しているはずだけど見えない」というような情報が伝えられることは、マニュアルのノウハウをしっかりと確立している施設でも難しいでしょう。もし伝えられていたとしても、出席管理システムを妄信し、その情報に寄りかかってしまっていれば、このような状況下ではすぐに「園内にいるなら安全だ」というバイアスにかき消されてしまうでしょう。
システムに寄りかかったマニュアルの落とし穴
行政は、送迎バスを運行している園に対して注意喚起とマニュアルの策定や見直しを求めています。しかし、そのマニュアルを一顧だにさせない「鉄壁のシステムがあるはずだ」というバイアスがある状態では、「かわいそうに」「気を付けよう」というレベルのボンヤリとした対策しか思いつかないでしょう。
日本の組織には、安全管理というと、すぐにシステムに頼る傾向があります。例えば、オフィスビルや高級マンションでは、セキュリティーカードによる集中セキュリティーシステムが人気ですが、このようなセキュリティーシステムは突破する意思を持った者には全く意味をなしません。集中セキュリティーシステム(エレベーターもパスがないと乗れない)を装備したオフィスビル内にある会社を先日訪問する機会を得ましたが、その時にその会社の人が、「さっき、受付でパスももらわずにここまで来てしまったお客様がいまして」と苦笑していたことがありました。このセキュリティーシステムの突破者は、何も知らないまま、他の人が開けた扉に誘い込まれるようにしてエレベーターに乗っていったら、その会社のオフィスがある階にたどり着いたそうです。「よくここまでたどり着けましたね」と驚く社員に対し、「まず受付に行かなければいけないのですね」と苦笑いしていたそうです。
マニュアルの必要性とその意味を吟味する
人間は非常時、平時のような行動はなかなかできないという理解から、マニュアルの必要性が語られ始めました。以前、ある集会で一人の人が倒れました。即座に「119番に電話して!」と言うと、電話に飛んでいった人がすぐさま戻ってきて、「119番って何番でしたっけ?」と聞き返してきた体験をしたことがあります。マニュアルは適正に使えば、事の対処に当たる人に冷静さを取り戻させ、最低限の人員で、最短ルートで解決策を導き出すことができるものです。
でも、そのマニュアルは万能ではありません。マニュアルには想定があり、その想定を超えた場合には全く役に立たなくなる恐れもあります。ですからマニュアルは、想定から外れた時の自由度を確保しなければなりません。以前、マニュアルの策定について相談された園では、津波対策について近くの高い建物に逃げ込むことを設定していました。しかし、津波は浸水すれば、しばらくの間引くものではありません。そこに立てこもってしまえば、救助が来るまでの間、飲まず食わずで過ごさなければならなくなります。暖房や冷房も確保できない状況の中、多くの園児を最低でも数十時間その場にとどめ置く必要が出てきます。袋小路に逃げ込むマニュアルではダメなのです。
最後は「人」とふさわしい訓練
さて、新約聖書のマタイによる福音書5章17~19節には、こうあります。
わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされるのである。それだから、これらの最も小さいいましめの一つでも破り、またそうするように人に教えたりする者は、天国で最も小さい者と呼ばれるであろう。しかし、これをおこないまたそう教える者は、天国で大いなる者と呼ばれるであろう。
マタイによる福音書の5~7章は山上の垂訓と呼ばれ、親しまれてきた部分です。ここには、生き方とその土台にある考え方が詳細に記されています。ユダヤの時代、律法とは生き方を縛るものでありました。それは厳しいもので、人々は生きるために律法に抵触するかどうかをしばしば律法学者に相談しなければなりませんでした。しかしそのために、律法のための律法が量産され、その度ごとに抜け道を模索し続けるような生き方に向かわざるを得ませんでした。そして、その抜け道を行けない人々は、罪人と呼ばれてしまわざるを得なかったのです。そういう人々が、ここで語られる群衆であったと私は考えています。
そんな彼らに、イエスは語るのです。「わたしが律法や預言者を廃するためにきた、と思ってはならない。廃するためではなく、成就するためにきたのである。よく言っておく。天地が滅び行くまでは、律法の一点、一画もすたることはなく、ことごとく全うされる」と。
教会では幼稚園や保育園を経営しているところがよくあります。そのような場合、牧師が理事長や施設長など、経営職であることが多いでしょう。子どもに対するロマンや教育論もあるでしょう。でも、それらより優先されなければいけない大切なことがあります。それは、最後は「人」なのだということです。
米国の航空業界には「全ての安全規則は血で書かれている」という格言があるそうです。マニュアルも規則も、これまで起きた事故の尊い犠牲の上に成り立っているという意味です。ですが、現在の日本では、規則のための規則、マニュアルのためのマニュアルという概念が、いまだに巣くっているように私には見えます。
導入が進められてきたヒヤリハットノート(事故一歩手前で気付いた事故要素の報告ノート)の活用などもほとんどの園では、有効に用いられてはいません。要は、ガバナンスとマネジメントが日本の保育施設は非常に脆弱(ぜいじゃく)だということなのです。
事故防止、感染防止、突発死防止、不審者対策、防火、地震、水害など、さまざまなマニュアルの設置を求められる日本ですが、そのマニュアルを使いこなす訓練を怠っているのが実情なのです。日本では、「人」に対する理解が低いのです。もっとも、労働体系が「時間を買う」という一点に集約されているわけですから、人材育成も何もかも、システムに寄りかかったものにしかならないわけです。
今回の事故は、一つのボタンの掛け違いが送迎バスという袋小路に園児を追い込んでしまいました。そもそも送迎バスに鍵をかける必要があるのか、日中はドアを解放しておくのも一つの有力な手段ではないのか、いろいろな可能性を検討しつつ、マニュアルの策定を進めていかなければならないのです。
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