気仙沼で行われた3・11の追悼集会で、地震発生時刻の午後2時46分にサイレンが鳴らされると、参加者全員で黙祷をささげました。
会場の外に、被災当時、小学校1年生と6年生だった子どもがいたのですが、教会の外の花壇のところでサイレンを聞くと、思わず泣き出しました。そこに一緒にいたゴスペルシンガーの神山みささんが彼らを抱きしめ、共に泣いてくれたそうです。
津波の真っただ中にいた小さな子どもたちも、今は社会人になり、中学生になろうとしています。そんな彼らの「津波の記憶」は、たとえ一時的に忘れたとしても、消えることはありません。
それを、将来への「糧」として、財産に変容することができるのでしょうか。私は、それは可能だと思っています。それが神の愛、キリストの愛なのです。
神は、戦火によって崩壊したエルサレムの回復を次のように語っています。
「エルサレムの荒れすたれた所よ、声を放って共に歌え。主はその民を慰め、エルサレムをあがなわれたからだ」(イザヤ書52:9、口語訳)
私たちを設計し、創られた全知全能の神だけが、私たちの心の全てをご存じであり、癒やすことができます。しかも、その治療の代価は、すでにイエスが十字架でご自分の命を差し出し、支払ってくださっているのです。
イザヤは十字架について次のように預言しています。
「彼(イエス)はわれわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼(イエス)はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれはいやされたのだ」(同53:5)
3・11は毎年やって来ます。
来年、サイレンを聞くときに、主イエスを信じるならば、その涙が、神によって愛され、救われたということへの感謝の涙に変わることを、私は確信しています。
God bless TOHOKU!!