東日本大震災から5年。東北は南三陸町を拠点に震災復興支援活動に取り組み、数々の団体を立ち上げてきた中澤竜生(なかざわ・たつお)牧師。後編は中澤牧師の金看板である「宣証(せんしょう)」と地元に根差した支援活動の話題。最後に自身が掲げる「教会形成」について力強く証ししてもらった。
南三陸町への働きが始まる
震災で不足していたガソリンが手に入るようになり、さまざまな団体が東松島市に入るのでそろそろ手を引こうと思っていた。その頃、米国人の宣教師2人がクラッシュジャパンの支援で南三陸町へ入る。中澤牧師が事前に得た情報で「あそこは物資が少ないそうだ」と伝えていた。クラッシュジャパンは活動拠点に教会がないと活動ができないため、当時の南三陸町に教会はなく、中澤牧師の名刺を渡して伝道所があることにして遣わしたという。
突然、電話が入る。「避難所で言葉によるトラブルが起きてしまい、このまま帰れない。今すぐに来てください」。中澤牧師は南三陸町へ行ったことがなかった。当時、テレビ局と進藤龍也牧師が別の件で活動中だったが、すぐに声を掛けて急きょ南三陸町へ向かう。
ここが有名な志津川高校という避難所だ。片道3時間以上。300人前後が避難していたが、夜になると700人近くに増える。避難所リーダーから「支援者です」と紹介された。この出会いが全てのスタートとなり、本格的な支援活動へつながっていった。
牧師夫人は、「1日中物資の仕分けに追われ、朝、昼と家族やボランティアの食事の準備、夫が南三陸から戻ると『〇〇がない』とリクエストされた」と、当時を振り返る。避難所の必要は刻一刻と変わる。当時中学生だった息子まで一家総出で買い出しに出た。「1軒だと買い占めてしまうので転々と回る」と語るが、これを毎日行うのはどんなに大変だったことだろうか。
中澤牧師は早朝に家を出て3時間以上掛けて現地入りし夜遅くに帰宅する。このような日々を繰り返したそうだ。中澤牧師は「倒れる暇がない。異常なまでに守られた」と語る。震災から2カ月がたたないときの話だが、背景にただただ神の愛と守りがあったことを感じることができた。
避難所に物資のバラつきが起きる
次第にテレビ局が避難所を中心に中継するようになる。マスコミが盛んに入るようになると、同じ場所が連日報道されるので情報が一点に絞られ、物資がそこだけに集中して余るという現象が起きていく。南三陸の志津川高校もメディアにより有名になった避難所の一つで、中澤牧師が関わっていた。
志津川高校の避難所はコミュニティーがしっかりしていて良く機能していたそうだ。アイデアを出し合いながら余ったパンを集落へ配るなど輪を広げていく。どこへ行っても信頼関係があるので出会いがあり、人探しにもなり貴重な情報収集の場ともなっていく。中には被災者目線で取り組んでいない団体もあり、ある避難所で必要を聞いた中澤牧師はすぐに準備して、それを届けたが「今までの支援者とは違う」と大変に喜ばれたそうだ。
このように信頼を得ることも証人つまり「宣証」の成果であると語る。ある支援者と被災者が結婚したが、当初はメディアで不謹慎だと非難された。しかし、地元の温かな配慮で結婚することができた。中澤牧師が司式を務め、家族で賛美を披露し「本当に素晴らしい時間を過ごせました」と当時を振り返る。津波で家族を亡くした方や苦しい中にいる人たちも会場におり、自然と心の奥に御言葉が染み入ったそうだ。
避難所から仮設へ
6月には仮設住宅へ人々が移り出し、活動は住宅地で行われるようになる。どこへ行っても大切なのはすぐ宣教、聖書、教会という概念だけでなく、「つながり」を持つための地道な努力であることを知る。地域特有の関わり方について「土着的である」という表現を使うところがユニークだ。
南三陸町に八つほどある仮設住宅では伝道は一切行わなかった。代わりに「安否を問う」というテーマで新たな活動をスタートした。高齢者が多く住む仮設住宅では深刻な孤独死、自殺問題が浮き彫りになったが、このようなことが起きないよう全ての仮設を回った。「お元気ですか。どうですか?」。このようなあいさつは聖書から習っている。福音書はあいさつで始まる書が多いからだ。
高齢者の弱みに付け込んで危険性を感じる団体、宗教が入り乱れてくる。中澤牧師はこのような団体を一つ一つ精査しながら地元の仮設住宅リーダーと協力をして「宗教おことわり」と張り紙を張った。同じクリスチャンであっても例外ではなかったと残念そうに語る。突然、やってきて教会も聖書も知らない地元の人を集め賛美集会を行い、高齢者に手を挙げて祈るよう強要した団体がいたという。
「ユダヤ人にはユダヤ人のようになりました。それはユダヤ人を獲得するためです」(Ⅰコリント9章20節)
クリスチャンセンター開設から撤退までの証し
夜の南三陸の町は真っ暗だった。仮設住宅は高台に造られ、津波の被害を受けた場所には街灯すらなかったからだ。そんな中で有名な「クリスチャンセンター愛・信望館(あい・しんぼうかん)」が完成する。中澤牧師は希望の光だと思ったそうだ。クリスチャンセンターは、日本国際飢餓対策機構(JIFH)やSola(子ども学習支援団体)、東北ヘルプなどが入り、困っている年配者への生活支援、いわゆる包括センターとしての役割と情報収集が目的とされた。
2012年6月に完成したが、人がたくさん来れば主義主張が異なり、被災者と中澤牧師らはこの場を生活支援の拠点と考え、クリスチャンは教会として運営したいと考える。日曜日に礼拝をすることは構わないが「外から人を誘う」ことは宗教活動になるので当初の目的とは異なり「教会」が組織化していくことへ不安を感じるようになった。そうなると、現地の人は「ここはキリストさん」と認識する。それが残念だったと打ち明ける。
そのような流れからさまざまなトラブルが起きていく。センターは2013年3月31日をもって閉鎖された。この辺りから中澤牧師は地域に根差した教会観やコミュニティーについて深く考えていくこととなる。
中村幸夫医師と出会い、本格的な医療支援活動がスタートする
2013年から14年と仮設を回り続けた。神様の導きである老人ホームのコンサートで中村幸夫医師と巡り合う。中澤牧師に「1度仮設を見てみたいです」と声が掛かった。ところが、彼は浄土真宗で「さすがに最初はどうしようかと悩みました。いきなり仏の話をしたのでびっくりした(笑)」。あるチームは驚いて来なくなったが、中村医師は地元で活躍する可能性がある人。共に活動をしようと決意する。
幸いにも自治体が医療や支援に対する意識が高く、気が付けばいつの間にか中村医師からキリスト教について話をするようになったという。1年間で33カ所の仮設住宅をカバーしたそうだ。「『相手から気が付いて自身で判断していく』という証しへの結果がまさに『宣証』だと感謝した!」
次なる目標は仮設から復興住宅へ移る。「単なるコミュニティー支援ではなく認知症に優しい街づくりをやりましょうよ」と中村医師が提唱。地域が必要を感じ1月に開催することができた。この他にも女性中心に医療や薬など高齢者へのケアを行う「クィーンズ倶楽部 医療支援」も行ってきた。
南三陸特有の「溝」の文化と聖書の福音
中澤牧師は、「津波で崩壊した習慣全てが再建する前に、福音をこの地に入れたかった」と語る。南三陸には特有の「溝」(こう)という文化がある。この溝は他のもの、他の宗教を入れないで地域を守り、あるものを大切にして助け合おうという土着の考えだ。
この文化が浸透していた故に、南三陸町にはキリスト教の教会はなかった。中澤牧師はこの地で個人伝道はしていない。行えば“布教”になるからだ。しかし、溝の文化が戻る前に「神にある人間関係を作り上げたい」と期待する。
牧師としての働きだけでなく、「自分で気が付いて発見をしていく」ファシリテーターという立場と、行政やNPOと連携しつなげていくコーディネーターという立場も持っている。町が生きるために必要な知識やノウハウがないといけない。今後の活動に専門的な知識を得るためにも、今回はTCU(東京基督教大学)で学ばなければならないことがあったと話す。
次々と地域支援活動の輪が広がる
2015年からは入院したくてもできない人のケアに取り組み、地域を福祉化したいと考えるようになる。これが「仙台支え愛サポートセンター」(特定非営利活動法人)だ。呼び掛け人は仙台の経済産業省に勤務する新井純氏。彼が中澤牧師に立ち上げたいと相談をしたことから始まる。困り事へのサポートが目的である。中澤牧師は役員を務め、理事長は東北大でLB21乳酸菌を開発した齋藤忠夫教授が務める。経験豊富な人材がそろった。そこで手を挙げたのが桜ヶ丘町だったそうだ。
ここは高齢者が最も多く、15町内当たり1万4千世帯と突出している。すでに15町内がまとまってセンター運営を応援しており、やはり地元に根差す新井氏の力はすごいと痛感したという。桜が丘町は1万3782人(2016年1月現在)いる人口の30パーセント以上が一人暮らしの高齢者だ。中澤牧師は地域を「福祉・施設化」するという考えだ。皆で見守り助け合っていきたいと願っている。
中澤牧師は「この地での関係づくりは終わりました。しばらく南三陸町に行かなくても関係ができているのでいつでも中核まで入ることが許されています」。関係づくりからコミュニティーに向け、次なる目標はノウハウであると話す。神の計画、その展望は明るい。
TCUの休暇から仙台へ戻ったら、この活動を「南三陸町でやりたいです!」。このようにビジョン、思いは尽きない。「腰に帯を締め、あかりをともしていないさい」(ルカ12章35節)。焦ることなく取り組みたいと語る中澤牧師は、「与えられている賜物を高めることが大切です」と説く。
支援活動の中で得た新たな教会形成の発見
中澤牧師は、支援活動から得た大きな方向性について、「福祉的なことや地域についてまとまりました。今は宣教のこと。『宣証』をどう確立させるかです」と語る。
日本は19世紀に宣教という言葉が使われるようになったが、明治から今日まで教会は伸びていない。教会に人は来ているが「続かない」、その原因は「つまずく」からだ。中澤牧師は、伸びない、続かないのはキリスト教だけでなく創価学会や立正佼成会でも同じことが言えるという。これは現地で大きな宗教者の集まりがあり、そこで体感したことの一つだ。
教会が信徒教育をしても行き着くのは減少である。理由は人口が減っているためで当然のことだ。では、どうしたら福音を広めクリスチャンが神としっかりと関係を持って心豊かに生きた証し人となれるのか。オランダの神学者で首相も務めたアブラハム・カイパー氏の言葉を引用し、「有機体としての教会と、制度としての教会」について思いをめぐらす。
日本の教会は制度としての教会が一般的である。キリスト教社会運動家である賀川豊彦氏は有機体の教会について語っているが、聖書の使徒たちは当時、有機体として歩んでいた。ローマはこの有機体から制度としての教会へと変革させ、その形が今に至っていると説明する。中澤牧師はさまざまな主義、立場にある団体に所属をしているので、どの方法も考えも欠かすことができない大事なものであると語った上で、「ずっと自分の立ち位置が噛(か)み合わない思いでいました」。何より牧師としての立場や責任もあるからだ。
宣教活動は大事でそのチャンスは逃す訳にはいかない。でも、個人の賜物や能力で取り組みは成功しても、その人だからできるという部分は大きい。影響力のある牧師がいなくなれば、その活動や歩みは止まってしまう。植物に例えて「土壌に福音の種を植えて宣教の栄養を加え育っていく」、自然に構築されていくことが「無理のない」成長。有機体であり「宣証」であると気付いたそうだ。
ところが、実際は賀川豊彦が有機体の教会形成を実践したものの、日本には根付いていない。有機体という信仰には、制度の教会は実に冷ややかだったのが理由である。今も同じではないかという。制度的な教会と有機体の教会は「正しい、正しくない」ではかりに掛けるものではなく、共に応援しながら地域に貢献することが大事だという。日本は左右に分けることが好きな国民性だから、時に片方を肯定する結果になりやすい。大事なのは日本ではどう取り組まれるかだと熱心に言葉を続けた。
「もし、全部がただ一つの器官であったら、からだはいったいどこにあるのでしょう」(Ⅰコリント12:19)。この聖句を引用し、「全員が手だったら大変でしょう!」と冗談交じりで笑顔をみせる。「無駄なことは何もないのです。そこに良いものしかないのです」。この言葉は信仰であり、ひと言ひと言に強い説得力を感じることができた。
「有機体は自然体であり、どんどん広がらないといけません。今までの教会は有機体を欠点のように扱っていました」。人は制度という形につまずく。調べると、神学者でも有機体に言及している者が多いという。実はまだ日本では書いている人は少ない。そのような中で先駆けとして「宣証」を通じて有機体の教会形成を確立させたいと願う牧師の心に熱いスピリットを感じた。
神学用語は難しいので日本人にしっくりくるオリジナルの言葉も考えている。「武士道」や日本人が持つ精神についても学んでいる。日本人ならではの伝達方法があるのではないかと思い、TCUで学んでいる。
今後の歩みについて
今後の歩みについて聞いた。「まず有機体の教会を建て上げます」。こう決心する大きなきっかけがあったという。「ここでの休暇中に起きました」
3月11日には震災の追悼式典があり、中澤牧師は責任者として慌ただしく準備に追われた。そのような中で2011年から関わりのある南三陸町に住むM氏(女性)からメールが入ったそうだ。
彼女は「溝」の文化の中で生まれ育ち、曹洞宗に強く引かれていた。ところがメールには「洗礼を受けたい」と書かれていたので、牧師として理由を聞いたそうだ。彼女は「ずっと親交のあった僧侶が自殺し大変なショックを受けたが、中澤牧師との関わりの中でクリスチャンとして何かが芽生え始め、感じるようになった」と打ち明けたそうだ。
中澤牧師は「そのお坊さんのことは忘れてはいけないよ」と、今までの歩みや感謝の思いを教えたそうだ。ようやく仮設住宅から自分の家を昨年建てることになったM氏。先日、牧師らは新築予定地で祝福式を執り行ったばかりだ。この際に聖書を埋めたそうだ。
彼女は今回のメールで「5月に洗礼を受けたい」と告白した。理由は気仙沼の養護施設で働くことが決まり、津波で親を亡くした子どもたちと関わりながら、自分を守ってくださる神について信じ、祈っていきたいという必要が分かった」ということだ。
本来はここで「教会を紹介します」と考えてしまうが、「今こそ有機体の教会だ」と直感したという。「神様につながって生き生きして地域に根差してもらった方が自然」。たとえ、誰かに「どこの教会員ですか?」と聞かれたら、堂々と「私は仙台教会です」と答えればいい。今することは「子どもたちにイエス様をしっかり伝えることだよ」と励ましたそうだ。
最後に、深刻な福島の東京電力での原発事故の放射能の影響や、揺れる安保法制についても語ってもらうことができた。何事も「右左で考えないでもっともっと議論を深めていければいいと思う」
震災直後からまさにノンストップ。その「隣人愛」のひと言に自身をささげてきた中澤牧師。私たちの想像を絶する状況下で見たくないものを見て、多くの痛みや心の傷もあるはずだ。家族はまさに無休状態で物資と関わり続けてきた。ささげられた個人献金を生活に充てることができず、物資の調達に使った経験も告白する。
人と人の関係を修復し、津波で失ったゼロの地にまことの命を証しする。「宣証」への確かな思い。「有機体の教会形成」への確信。目立つこともなく淡々と主のご入り用に従う中澤牧師とその家族。今後の活躍と日本の地に生き生きとしたクリスチャンライフを広げる先駆けとなっていくことを期待したい。
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名義:キリスト聖協団西仙台教会かけはし 会計中澤佳子