求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である。(新約聖書・マタイによる福音書7章7~12節)
頭の中の整理が第一歩
以前、自閉症と診断された子の相談を受けたことがあります。その子は4歳にして会話が成り立たないということでした。様子を見るために、まずはその子と会話をしてみました。非常に人懐っこい子でしたが、確かに会話ができません。
具体的には、どんな質問をしても、ディズニープリンセスのキャラクター名や場面が単発的に飛び出してきます。試しに馬の絵を見せて「どの馬が好き?」と尋ねたら、「シンデレラ」と答えます。担任の保育士もどうしたらいいのか分からず、途方に暮れていました。
会話というのはやり取りです。質問に合った受け答えをできなければ、会話が成立しません。この子の状況を見たとき、ピンときました。先ほどの「どの馬が好き?→シンデレラ」のやりとりは、彼女の頭の中ではきっと、「馬→馬車→シンデレラ」とつながったのでしょう。ディズニープリンセスの話題がこれほどたくさん飛び出しくるので、記憶力には問題がないはずです。問題なのは、彼女の頭の中にある何段階もの連想が、それぞれのつながりの説明を吹っ飛ばして口から出てくることです。
そこで、彼女の頭の中は、ディズニープリンセスの情報や記憶の断片が未整理のまま散らばっているのだろうと推測し、まずはその情報や記憶を整理することにしました。具体的には、ディズニープリンセスのアニメ絵本を全てそろえ、1日15分を目安に1冊ずつ順番に会話をしながら一緒にストーリーを追っていくことにしました。
それから半年くらいで、目標の10ターンをクリアすることができました。また、当時通った言語聴覚訓練でもこのやり方を採用していただき、当初は養護学校を勧められていたのが、近所の小学校に入学することになりました。
外部の人と接して分かること
概して、子どもたちをコントロールすることに優秀なスキルを持つ保育士のクラスでは、子どもたちは聞き分けが良く、言われたことは即座にこなします。その一方で、知らない人に対する反応は大きく異なるなど、オン・オフが激しいことが多いです。
例えば、最初は近寄り難そうにウロウロしながら、たたいてきたり、「クソジジィ」というような悪口を仕掛けてきたりする子がいます。しかし、そうした子も「この人は無害だ、遊んでくれる人だ」と分かると、一転して遠慮なく近寄ってくるようになります。こういう場合はそもそも、保育中のコミュニケーションが足りていないことが多いです。
発見はある日、ある時、突然に
子どもの生活には、発見が満ちあふれています。成長するにつれ、安定した繰り返しに安心感を感じることも増えてきますが、年少から年長までのいわゆる満3歳以上児になってくると、毎日何かを発見します。それは、アリの行列だったり、ダンゴムシだったり、おもちゃの組み合わせだったり、雨や雪の後のいろいろであったり、友達との遊び方であったりします。この発見が、前回紹介した「ごっこ遊び」に反映されたり、さらにはさまざまなコミュニケーションの手段として用いられたりしていきます。発見が共有されると、新しい発見が別の子から飛び出してきます。そのような積み重ねでコミュニケーション能力が上がってきます。
コミュニケーションは発見と共有の繰り返し
「面白いことを楽しませるのが保育である」と考えている人も多いと思います。しかし、それが保育士主導で行われてしまえば、子どもたちの間から「面白い」「楽しい」という声は確かに聞こえるかもしれませんが、一斉に同じ体験を同じタイミングでしてしまうことになり、コミュニケーションが発展しません。
ある認定こども園の保育指導に行ったとき、その園の5歳児が非常に幼く見えました。コミュニケーション能力は3歳児程度。子ども同士の連携もほとんど見られませんでした。コミュニケーションの基本は「補い合うこと」です。自分が知っているもの・知らないもの、できること・できないことを共有したいというニーズによって、コミュニケーションが生まれるのです。
ごっこ遊びはコミュニケーション手段
東日本大震災で津波被害を受けたある保育施設では、落ち着きを取り戻したころ、子どもたちが、積み木で作った町を津波が襲うという「津波ごっこ」をしていたそうです。その施設の園長に話を聞くと、子どもたちは保育室の隅っこなどで、ひっそりと津波ごっこをやっていたとのことでした。どの子も津波で家族を失ったり、家を失ったりした子だったそうで、その園長は「津波の状況を再現することで、心の傷を癒やしているようだった」とおっしゃっていました。そして、そんな子どもたちの姿をそっと見守ることにしたそうです。
ごっこ遊びは、自分たちの強烈な体験を言語化できない子どもたちが採る一つの表現手法であることがあります。私が園長をしていた認定こども園では、葬式で休んでいた子が、登園してきたときに友達を巻き込んで葬式ごっこをしていたことがありました。それを目撃した保育士がびっくりして報告してきましたが、それも、大好きな人の死とそれを見送る儀式を友達に伝えたかったのかもしれません。
お泊まり保育ごっこを目撃したこともあります。年長児がお泊まり保育をした数日後には、お泊まり保育でどんなことをしたのか、肝試しで出てきたお化けはどんなものだったのかなど、年少児までが把握していたりします。このように、子どもたちは楽しい体験やつらい体験も、ごっこ遊びにして伝え、共有していきます。そして、それによって楽しい体験をさらに増強し、逆に悲しい現実を乗り越えようとするのでしょう。
コミュニケーションのスキルは体験共有の歴史
3歳くらいになると、園での出来事を親など保護者に話したくてどうしようもなくなる子が多いのも、そういうことです。顔中を口にして園での出来事を話そうとする子どもたちの姿を想像してみてください。「先生と競争した」「園長先生が手品をしてくれた」「褒められた」「友達が面白いことをしていた」・・・。彼らはさまざまなことを報告したくてウズウズしているのです。
こうなると、頭の中が整理されてきて、記憶というものが意味を持ってきます。単なる単体の面白い話ではなくなり、次へのつながりが想像できるようになると、その場で何を言えばいいのかということも、自然に整えられていくようになります。(続く)
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