前回は村上春樹論のようになってしまいましたが、今回は、作品の中で「子易さん」という図書館の元館長が引用した詩篇の、本来の文脈と意味を詳しく丁寧に解説してみたいと思います。彼が引用した箇所は詩篇の144篇4節ですが、その少し前から一緒に文脈を追ってみましょう。
■ 前後の文脈
主よ。人とは何者なのでしょう。あなたがこれを知っておられるとは。人の子とは何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。人はただ息に似て、その日々は過ぎ去る影のようです。(詩篇144:3、4)
4節はまさに、作中の子易さんが言及しているように、人の弱さや「儚(はかな)さ」を説いていますが、それは3節の補完の文として、驚きを強調するために書かれているものです。
つまり、息のように影のように「儚い」存在である人の子(われわれ)を、どうして絶対者である神様が目に留めて、顧みてくださるのですかという驚きを表現したダビデ王の告白なのです。
■ 詩篇の並行箇所
しかし、聖書の興味深いところは、それに並行箇所があることです。詩篇144篇と同様の内容が、異なる角度から詩篇8篇にも書かれているのです。
あなたの指のわざである天を見、あなたが整えられた月や星を見ますのに、人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、万物を彼の足の下に置かれました。(詩篇8:3〜6)
詩篇144篇は、人を「影」のようだとして、人の「儚さ」を強調しているのに対して、詩篇8篇は、神が創造された天や月や星を見て畏敬の念に打たれ、神の「偉大さ」を強調しています。
そして、人の「儚さ」と神の偉大さを知るに及んで、神様が人を顧みて、栄光と誉れの冠をかぶらせてくださり、世界を人に治めさせてくださっていること(創世記1:28)に対する「驚き」が、美しい詩として表現されているのです。
■ 新約聖書による詩篇解釈
ところが、ここで終わらないのが聖書の不思議なところです。新約聖書においては、この同じ詩篇の箇所に、全く異なる角度から光が当てられているのです。
むしろ、ある個所で、ある人がこうあかししています。「人間が何者だというので、これをみこころに留められるのでしょう。人の子が何者だというので、これを顧みられるのでしょう。あなたは、彼を、御使いよりも、しばらくの間、低いものとし、彼に栄光と誉れの冠を与え、万物をその足の下に従わせられました。」万物を彼に従わせたとき、神は、彼に従わないものを何一つ残されなかったのです。それなのに、今でもなお、私たちはすべてのものが人間に従わせられているのを見てはいません。ただ、御使いよりも、しばらくの間、低くされた方であるイエスのことは見ています。(ヘブル2:6〜9)
旧約聖書を見る限り、この詩篇の箇所は私たち「人」と神様の関係を描いているようにしか読めません。しかし、ダビデは預言者なので、詩篇は単に当時の人々のことだけを書いていたわけではありません。神の聖霊に満たされたヘブル書の記者は “唐突” に、詩篇に書かれている「人の子」とは「イエス」のことだと指摘しているのです。
もちろん、詩篇の最初の部分は「人」の弱さや「儚さ」について書いているのですが、ダビデ自身も気付いてか気付いていないか、その詩はいつの間にか、メシア預言の性質を帯びているのです。そして、いと高き神の子イエスが低くされ「人の子」となること、その意味や目的が預言されているのです。
聖書の預言の特徴は、当時の人々の状況や真摯(しんし)な思いとメシア預言のような神のメッセージとが、明確な境界のないまま多義的に折り重なるように書かれていることです。そして今回の詩篇の箇所は、その最たるものであり、普通に読むだけでは気付かずに見逃してしまう方も多いと思います。
■ 聖書解釈について陥りやすい誤り
聖書を読むときに陥りやすい誤りは、「自分自身」もしくは「人」を主人公として読み解いてしまいがちなことです。確かに神様は、私たちを愛してくださっていますが、この世界の中心は神様であり、聖書の主人公は「イエス・キリスト」ご自身です。それは、「十戒」や「主の祈り」の冒頭部分にも明示されています。そして、イエス自身も福音書の方でこのように宣言しています。
あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。(ヨハネ5:39)
ですから新約聖書は言うに及ばず、モーセ五書も預言書も歴史書も、詩篇もヨブ記もヨナ書も雅歌も全て、主の神性について証言しているのであり、その主題は「イエス・キリスト(メシア)」です。そのことを意識して読むかどうかで、聖書理解が全く異なるものとなります。
■ 村上作品の特徴
村上作品の特徴は、「自分自身(人)」の内面にひたすら焦点が当てられていることだといえます。作中に出てくる17歳から中年になる主人公はもとより、イエローハットのパーカーを着た少年も老年の子易さんも、皆が村上春樹の分身だといえます。
彼を批評する人たちは、彼は老年になって、まだ「自分探し」をしていると酷評しています。ところが、私たちは皆、自分自身の心の葛藤と日々向き合っているのですから、多くの人は彼の作品に共感し、彼は国や言語を超えて支持されています。
ただし、やはり私たちはいくら自分の内面を凝視し続けても答えを得ることはできませんし、自分や世界について何かを知ることもかないません。彼が、いみじくも表現しているように、考えれば考えるほど「不確か」であるという結論に至るしかないのです。いやむしろ「不確か」でよいのだというのが現代の風潮だともいえますし、それが氏の処方箋なのかもしれません。
意味なんてことは考えちゃいけない。意味なんてもともとないんだ。(村上春樹『ダンス・ダンス・ダンス』より)
誰かが何かの主義主張を絶対的(普遍的)なものとして主張するとき、人々はそれにとらわれてしまうのだから、意味なんて考えちゃいけないのだと。でもやっぱり、それでは不安や孤独や死のイタミが少し和らぐことはあるにしても、払拭されることはないのです。
■ 万物の存在の目的であり、また原因でもある方
そのような私たちに、聖書は語りかけています。
万物は御子によって造られ、御子のために造られました。(コロサイ1:16)
また私たちは、移ろう影法師のように儚い存在なのかもしれませんが、神は岩のようなお方であると、引用された詩篇144篇の冒頭に書かれているのです。
ほむべきかな。わが岩である主。(詩篇144:1)
そして、私たち「人」ではなくイエス「人の子」が、十字架の死の苦しみを通して、栄光と誉れの冠を受けることを詩篇は預言していたのです。先ほどのヘブル書の続きを読んでみましょう。
ただ、御使いよりも、しばらくの間、低くされた方であるイエスのことは見ています。イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。神が多くの子たちを栄光に導くのに、彼らの救いの創始者を、多くの苦しみを通して全うされたということは、万物の存在の目的であり、また原因でもある方として、ふさわしいことであったのです。(ヘブル2:9、10)
岩のように確かな存在である方が、世界をつくり、私たち「人」を罪と死とむなしさから救うために、イエス「人の子」が十字架の上で死の苦しみを味わってくださったというのが、聖書のシンプルでパワフルなメッセージなのです。
■ 私たち「人」と、イエス「人の子」の関係
主人公が自分「人」ではなくて、イエス・キリスト「人の子」であるというのなら、それは自分とは関係のない話だと思われる方もいるかもしれません。
確かに、聖書は神を中心として書かれていて、イエス・キリスト「人の子」を「万物の存在の目的であり、また原因でもある方」だと宣言しています。でもそれは「あなた(人)」が疎外されているという話ではありません。むしろ「あなた(人)」が、この御子イエス「人の子」のうちにあって贖(あがな)われ、彼と共に一つにされ、御国を受け継ぐ者となるというのが、聖書の主張なのです。
私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。(エペソ1:7)
時がついに満ちて、この時のためのみこころが実行に移され、天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められるのです。この方にあって私たちは御国を受け継ぐ者ともなりました。(エペソ1:10、11)
■ 〖enlightenment「悟り」「啓蒙」〗と〖revelation「啓示」〗
哲学者のジル・ドゥルーズにしろ、ジャック・デリダにしろ、現代の知識人は皆が口をそろえて「普遍的な真理や確固たる意味の存在」に異を唱えます。そして村上春樹は、死や現実、私たちの存在そのものを「うつろう影」のようにぼやかし、境界線をあやふやにすることで、人々の孤独や不安に寄り添う作品を書き上げました。
でも聖書(詩篇)は、厳かに世界の基を据えられた岩のような神の存在を前提にしていて、イエス・キリストは大胆にも「私は道であり、真理であり、命である」と宣言されました。そして「私たちは、神の中に生き、動き、また存在しているのです」(使徒17:28)と使徒たちは語っています。
私は村上作品を酷評したいわけではありません。彼は小説家として超一流であるし、いつノーベル文学賞を取っても不思議はありません。私自身も、彼の作品に孤独が慰められた時期がありましたし、何かしら心引かれるものや優しさを感じ続けてきました。
ただ、小説の中で引用されている聖書箇所が含有しているメッセージは、人が語り得る物語とは全く異なるものであり、「わたしたちは、ただの誰かの影にすぎないのよ」という16歳の少女の口を通して語った村上春樹独特の〖enlightenment「悟り」「啓蒙」〗は、ユニークなものではあるけれど、聖書(イエス・キリスト「人の子」)の〖revelation「啓示」〗とは対極にあるものなのです。
■ 終わりに
つまり、村上春樹はジャズの即興演奏のように個人的な感覚を物語り、人生にも死にも確かなものはなく、うつろう影のような「不断の移行」があるだけなのだと言い、聖書は、岩のような神と、万物の存在の目的であり、また原因でもある方「イエス」の十字架の死の理由について書いているのです。
それは、神が私たち「人」を確かな存在として造られ、イエス「人の子」が犠牲を払って贖われたということ、つまり、それほどまでにあなたを愛しているというメッセージなのです。
ある人々は、聖書の世界観もまた、閉鎖的なコミュニティーや極端で偏った主義主張であると批判するかもしれません。確かに、キリスト教の歴史を振り返れば、閉鎖的な面や偏った主義主張があったことも事実です。
しかし「普遍的な真理は存在しない」「人生に意味などない」という主張には何の根拠もないし、それこそが近代になって知識人の間で流行している偏った見識に過ぎないと僕は思うのです。そして、それらの主張は斬新であったり、一時的に心を慰めたりすることはあるでしょうが、その言説故に、ますます孤独や虚無に陥ってしまう人もいるのです。
私は、自分の考えを押し付けたいわけではありません。しかし現代は、あまりにも人間中心の言説だけがあふれていますので、聖書自体が何を語っているのかを、なるべく聖書自体の言葉に沿って紹介しておこうと努めているのです。最終的にどう受け取られるかは、皆様お一人お一人次第なのですから。
最後に、冒頭の詩篇を1節からと、途中省略して最後の節を引用して終わりにしたいと思います。
ほむべきかな。わが岩である主。主は、戦いのために私の手を、いくさのために私の指を、鍛えられる。主は私の恵み、私のとりで。私のやぐら、私を救う方。私の盾、私の身の避け所。私の民を私に服させる方。主よ。人とは何者なのでしょう。あなたがこれを知っておられるとは。人の子とは何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。人はただ息に似て、その日々は過ぎ去る影のようです。・・・幸いなことよ。このようになる民は。幸いなことよ。主をおのれの神とするその民は。(詩篇144:1〜4、15)
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