世界にはたくさんの言語や民族国家、グループがある
それぞれが独特の歴史や思想、世界観を持っていて
誰かが何かを主張するとき
あるグループの人々は拍手喝采を送り
他の人々にとっては批判の対象となる
政治と宗教はその典型のようなものであり
誰かがどんなに真摯(しんし)に考えて
自分なりの真実を語ったとしても
それが全ての人に届くことはない
その主張が鋭ければ鋭いほど
それは異なる価値観を持つ人たちを困惑させ
あるいは激高させる
一言でいえば
それが「今」世界中で起こっている
「分断」の原因である
そのような対立を嫌う多くの人は
何かを語ることを諦めたり
避けるようになったりし
誰もが害もなく聞けるような
天気やテレビの話などに終始する
新しくできたおいしいレストランの話題などは
最適なものとなる
でもやっぱり
世界には戦争や貧困、疫病
そして「死」があり
そんなに世界規模の話ではなくても
人々は日常の中で「寂しさ」や「孤独」を抱えていて
表層的な話は
気まずい時間を埋めることはできても
不安な私たちの心を満たしてくれることはない
そのような中で村上春樹は
焚き火を囲って物語を語るように
思考の幾つかの塊や断片を自由自在に紡いでいる
それは
彼がこよなく愛するジャズの即興演奏のように
冷蔵庫の中の「あり合わせ」で作る手料理のように
その場にいる人々の心に寄り添って提供される
分断された社会の中で
唯一全ての人の心に届くものがあるとすれば
それは「音楽」と「愛」なのだろうと思う
歌詞のないジャズの旋律は言語を軽々と超えるし
愛の言葉は誰の心にも抵抗を生じさせず
「すっと」心の深いところに染み込んでいく
ロジカルな「言葉」を使って何かを語るとき
それは必ず何らかの反発を招く
でも「言葉」のない美しい旋律だけでは
解決できない心を皆が抱えている
そこに矛盾と葛藤がある
しかし「言葉」を
もしくは「思念」や「思考」「悩み」の断片を
掴んだと思ったら霧散していくように
特定の方向を定めずに虚空に並べていくとき
読者が押せば引いていき
引けば傍(かたわら)にいるようなものであるとき
それは人々のヒリヒリするような寂しさや孤独に
ぬくもりや温かさを提供するのだろう
※ここからは少しだけ作品の内容に入っていくので、先に作品を読まれたい方は、そうされてください。
だから今回の村上作品のテーマについても
「これだ」と一つに絞ることはできないけれど
それでも大きく底に流れているのは
「死」についてだと思う
影を持たない壁の中の人々の世界
毎日バタバタと倒れる単角獣たちの死
亡くなられた図書館館長との交流
その息子の事故死と妻の自死
若い頃の彼女と
イエローサブマリンのパーカーを着た少年の消失
村上春樹自身も
「残りの人生、いくつ長編を書けるだろうと考える」
と人生の終盤について言及しているし
別段隠すこともなく
ガルシア=マルケスの作品に対する
作中の人物の感想として
このように書いている
「現実と非現実とが、生きているものと死んだものとが、ひとつに入り混じっている」
「つまり彼の住む世界にあっては、リアルと非リアル(死者の世界)は隣り合って等価に存在していた」
やはり寂しさや孤独そして「死」は
全ての人にとって避け難い事実であり
解決のない問いだ
でもその事実が重たくて
得体が知れないものであるほど
政治や宗教の話以上に
人々は「死」の話題を避ける
そして感受性の強い人ほど
ますます不安や恐れを抱えることになり
ある人々は閉鎖的なコミュニティーや
極端で偏った主義主張にとらわれていく
だから彼は「言葉」を
ジャズの即興演奏のように使うことで
太古から人類が洞窟に住みながら
夜の帳(とばり)の中で
焚き火を囲って物語を紡いで暮らしていたように
自分の物語を明瞭過ぎないように
最新の注意を払いながら語り継ぐ
もう少し踏み込んで考えてみる
前述したように
村上作品は読み手の心理状態によって
意味が柔軟に変化するように
比喩的に書かれているので
何を意図しているのか一概には言えないが
およそ以下のような世界観と
それらを越境し得ることを示唆している
「生者」と「死者」
「現実」と「非現実」
「実体」と「影」
「夢」と「現実」
「意識」と「深層意識」
もしくは
「管理社会」「生きがいも目的もない安逸な人生」
「閉鎖的な村社会」「カルトグループ」
さらにいえば
毎年バタバタと倒れていく単角獣の死は
一見平穏に見える世界が
弱者たちの死や犠牲の上に危うい均衡を保っていて
私たちがシステムの中で
黙々と与えられた役割をこなす限りにおいて
犠牲になっている人々から目を背けることによって
管理された安逸を享受していることを
示唆している
もちろん春樹作品に独特の異性との関わり
老年期の前任の図書館館長や
イエローサブマリンのパーカーを着た少年との関わり
主人公自身の
17歳から中年期への移り変わりなども書かれている
それによって上述したような内容が
単なる個人の内面の葛藤というレベルではなく
人々との関係性や長い時間軸の中で
より豊かに複雑に表現されている
これらを描くための大きな舞台装置が
タイトルにもなっているのが「不確かな壁」であり
もう一つが「影」である
影を持たない者たちが住むのが
壁の中であり
影を有している者たちが住むのが
壁の外であることを考えると
これらは物語を進める上での
舞台と照明のような一対の装置であるともいえる
この「影」というモチーフは
聖書の詩篇を元にしたものであるようだ
これも作中の人物の言葉として明かされている
子易さんという図書館の元館長が
主人公に対してこう尋ねる
「ところで、あなたは聖書をお読みになりますか?」
あまりきちんと読んだことはないという主人公に対し
子易さんは詩篇の引用を始める
「わたくしもキリスト教徒ではありませんが、信仰とは関係なく聖書を読むのは好きです。若い頃から暇があれば手に取ってあちらこちらと読んでおりまして、いつしかそれが習慣のようになりました。示唆に富んだ読み物であり、そこから学んだり感じたりするところが多々ありました。その『詩篇』の中にこんな言葉が出てきます。『人は吐息のごときもの。その人生はただの過ぎゆく影に過ぎない』」
「ああ、おわかりになりますか? 人間なんてものは吐く息のように儚(はかな)い存在であり、その人間が生きる日々の営みなど、移ろう影法師のごときものに過ぎんのです」
なんだかプラトンのイデア論
(洞窟の比喩 The Allegory of the Cave)
における影帽子を想起させるような内容で
要するに人の「儚さ」を説いているのだ
ところが村上春樹は
さらに一歩踏み込んで展開していく
17歳の時に喪失してしまった少女の言葉として
物語の最後の方(598ページ)に書かれている
「ねえ、わかった? 私たちは二人とも、ただの誰かの影に過ぎないのよ」
実体が影を失い
影が実体となる
交互に入れ替わる物語の中で
主人公は自分が本体(実体)であるのか
誰かの影(仮象)に過ぎない存在であるのか
混乱してくる
村上春樹は「あとがき」の最後の最後で
このように書いている
要するに、真実というのはひとつの定まった静止の中にではなく、不断の移行=移動する相の中にある。それが物語というものの神髄ではあるまいか。僕はそのように考えているのだが。
つまり彼は本来語り得ない「言葉」を
ジャズの即興演奏のように虚空に並べることで
「生者」と「死者」
「現実」と「非現実」
「実体」と「影」
「夢」と「現実」
「意識」と「深層意識」
固定概念やら無為な安逸やら
閉鎖的な社会や思考の「壁」を
相対化して「あいまい」にし
自由に往来できるものであることを示唆したのだ
世界をそして自分自身ですら
本体(実体)であるのか
誰かの影(仮象)に過ぎない存在であるのかを
「曖昧」にすることで
絶対的な「死」や「不安」「孤独」を
相対化してあやふやにし
そのイタミをやわらげ
真っ暗な世界の中に焚き火をたいて
人々の心にいくばくかの慰めや温もりを与えている
というのが村上作品なのだと思う
そして付け加えるならば村上春樹は
不安で意味のない世界や人生において
人々が不安や孤独の故に
物質主義や閉鎖的なコミュニティー
極端で偏った主義主張にとらわれることがないように
バランスをとって踊る方法を
物語という形で示しているのだ
ところで村上春樹は
優れた作者として自分の物語を展開するために
聖書(詩篇)をその即興演奏のモチーフとして
人々に振る舞う手料理の「材料」として
使っているわけであるが
聖書には聖書本来の文脈があり
それを書いた作者の意図がある
本紙はキリスト教の新聞であるし
私は小説の評論家ではなくて聖書の専門家なので
村上春樹が引用した詩篇について次回(後半)
本来の聖書的な意図(文脈)を紹介したいと思う
◇