2023年、あけましておめでとうございます。世の中は非常に早い速度で変化していて、そこに多くのむなしい言葉が飛び交っています。一瞬は好奇心をそそられるけれども、明日には忘れられるような言説、負の感情や対立を喚起して注目を集めるだけの言説・・・。
しかし聖書には、真実な方の真実な言葉が刻まれています。三位一体なる私たちの神様がいかに真実な方であるのか、そのことを年頭のメッセージとして皆様にお伝えしたいと思います。
主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがたすべてとともにありますように。(2コリント13:13)
教会の礼拝の終わりには、牧師先生が祝祷(Benediction)をしてくださる時間があります。何でもそうですが、最後に行われること(語られること)というのはとても大切なことです。その時に用いられるのが、2コリント13章13節の使徒パウロの結びの言葉です。
私は幼い頃からクリスチャンでしたから、この言葉を何度となく聞いてきました。40年間で2千回以上聞いてきたことになります。しかし私は、なぜ祝祷において主イエス・キリストの愛ではなく「恵み」が強調されるのか、よく分かりませんでした。なぜなら、イエス様も私たちのことを愛してくださっているはずだからです。また、父なる神も私たちを恵まれる方だからです。そして「聖霊の交わり」がどれだけ大切なのか、ピンとこない方もいると思います。
しかし2023年の1月1日、家で聖書を読みながら、この祝祷の意味を明確に教えられました。そして神様がどれだけ私たちを愛しているか、どれだけ大きな恵みを与えてくださっているかを改めて知りました。一度に全体を語ることは困難ですので、今日は「主イエス・キリストの恵み」について皆様にシェアさせていただきたいと思います。まずは、ヨハネの福音書を引用させていただきます。
ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。ヨハネはこの方について証言し、叫んで言った。「『私のあとから来る方は、私にまさる方である。私より先におられたからである』と私が言ったのは、この方のことです。」私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。(ヨハネ1:14〜16)
バプテスマのヨハネはイエスについて「私のあとから来る方は、私にまさる方である。私より先におられたからである」と証言しました。しかし実は、ヨハネというのはキリストよりも半年ほど先に生まれています。ですから、ここでヨハネが言いたかったのは、どちらが年上なのかという話ではありません。
彼が言いたかったのは、キリストが世界の始まる前からおられる神ご自身であるということです。もう一人のヨハネである使徒ヨハネは、イエスのことを「ことば」であると表現し、大胆にもこのように宣言して、第4福音書の執筆を始めました。
初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。(ヨハネ1:1〜3)
そう聞くと、父なる神様は何をしていたのかと思われるかもしれませんが、もちろん父なる神が世界を造られたのです。神が「光あれ」と仰せられたのであり、その「ことば」によって世界は造られたのです。この父と子の関係をよく表している箇所があります。
神が天を堅く立て、深淵の面に円を描かれたとき、わたしはそこにいた。神が上のほうに大空を固め、深淵の源を堅く定め、海にその境界を置き、水がその境を越えないようにし、地の基を定められたとき、わたしは神のかたわらで、これを組み立てる者であった。(箴言8:27〜30)
この神の「ことば」である方が「受肉(Incarnation)」され、人となり、私たちの間に住んでくださいました。これがクリスマスの出来事です。
ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。(ヨハネ1:14)
「この方は恵みとまことに満ちておられた」と書かれていますが、さらにこのように書かれています。
私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。(同1:16)
「恵みの上にさらに恵みを受けた」ということは、私たちは2つの恵みを頂いていることになります。最初の恵みは「一般恩寵」といわれているもので、次の聖書箇所などに書かれています。
それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。(マタイ5:45)
父と子は一緒に世界を造られたときに、悪い人にも良い人にも恵みを与えてくださいました。私たちは、水や空気や太陽がなければ「一時」も生きることができません。ですから、私たちは気付いていても気付いていなくても、いつも神様からの一方的な恵みを無償で受けているのです。
そして、この恵みの上にさらに与えられる恵みというのは「特別恩寵」といわれるもので、主イエス・キリストの十字架上の犠牲と贖(あがな)いにより罪が赦(ゆる)され、救われ、永遠の命が与えられることです。
「恵み」というのは、何の働きも行為もない者に、無償で与えられるもののことをいい、対義語は「報酬」です。もしあなたが仕事をして報酬を得るとしたら、それは恵みではなく、当然受け取るべきものとなります。
働く者の場合に、その報酬は恵みでなくて、当然支払うべきものとみなされます。(ローマ4:4)
ところで「恵み」というのは、受ける側は無償で与えられるのですが、それを与える人は大きな犠牲を払わなければなりません。皆様が与える立場になればすぐに分かりますが、もしあなたが日本中の人にお金を配ろうとしたら、1人に1円ずつ配るとしても、1億円以上支払わなければなりません。
しかし、お金とは比較にならないほどに高価なものがあります。それは「人の命」です。例えば、親は子どもが誘拐されたら全財産を使ってでも、その命を救出しようとするでしょう。
そして、地上の命よりもはるかに高価なものが「たましいの贖い代」です。これは高価過ぎて、私たちは永久に諦めなくてはならないほどのものです。詩篇の記者はこのように言っています。
たましいの贖いしろは、高価であり、永久にあきらめなくてはならない。(詩篇49:8)
パリサイ派の人々は自分の正しい行為によって、自分の魂を神の前に贖おうとしました。また、昔の人々はお金を払って免罪符を購入することによって、罪の赦しを得ようとしました。
しかし、それらによっては誰も救われることがないということをご存じだったキリストは、汚れないご自身の尊い血(命)によって、私たちを贖ってくださいました。使徒ペテロはそのことを明確に宣言しています。
ご承知のように、あなたがたが父祖伝来のむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、傷もなく汚れもない小羊のようなキリストの、尊い血によったのです。(1ペテロ1:18、19)
全世界を造られた主は、その英知と恵みによって太陽や雨を私たちに与えてくださっただけでなく、ご自身の尊い血(命)によって、あなたのために「たましいの贖い代」を払ってくださったのです。そのために主は、ゲツセマネで苦しみもだえ、汗が血のしずくのように地に落ちるほどに祈られ、十字架上では全身から血を注ぎ出して息を引き取られました。それほどの犠牲と代価を払って、主はあなたを贖われたのです。
これが祝祷(Benediction)の中で宣言されている「主イエス・キリストの恵み」です。新年にはなりましたが、もしかしたら皆様のうちには、困窮、病、孤独、むなしさを感じている方がいるかもしれません。
しかし、主は「恵みの上にさらに恵みを」与えてくださる方であり、私たちにはすでにその恵みが与えられているし、常に与え続けられています。ですから、困難を感じるときには、そのことを思い起こしてほしいと思います。特に、礼拝で祝祷がなされるときには、神様の前に頭を垂れ「主イエス・キリストの恵み」に深く心を留めてください。そうすれば、贖われた喜び、主への深い感謝のために、魂が感動に震えるという体験をすることになるでしょう。
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