主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがたすべてとともにありますように。(2コリント13:13)
今回は祝祷について書かせていただいていますが、一つ憂慮していることがあります。それは、果たして読者の皆様がこのトピックに興味を持たれるだろうかという点です。といいますのも武田邦彦先生の言葉で印象に残っているものがあるのですが、それは「人はどこまでいっても自分にしか興味がない」というものでした。
武田先生はさまざまなテーマについて講演をする機会があるのだそうですが、例えば「子ども」をテーマに掲げた場合、あまり親たちは来ないそうです。ところが、子育て世代の「親」をテーマにすると、親にとっては「自分事」となるので、多くの人が集まるそうです。つまり、いかに愛する子どものことであっても、それはどこか「他人事」になってしまう面があるということです。
今回私が書かせていただいている内容は、三位一体の神様ご自身に関わることです。そうすると、いかに神様が大きな犠牲を払ってくださったのかを強調しても、読者の皆様にとっては、ある意味で「他人事」のように聞こえるかもしれません。「ふ〜ん」と聞き流し、それよりもいかに自分の目の前の課題や問題が解決されるか、いかに自分の人生が祝福されるかということばかりに思いがいってしまうということがあるかもしれません。
しかし、キリスト教信仰の大きな特徴は、自分の問題解決よりも「神の国と神の義」を第一に求めることであり、自分の祝福よりも「神様の御名があがめられる」ことを先に祈ることです。つまりは、自分よりも神様自身に思いをはせるのが信仰者です。これはそうしなければならないというよりは、そのような思いを与えられているともいえます。ダビデ王はこのように告白しています。
私は一つのことを主に願った。私はそれを求めている。私のいのちの日の限り、主の家に住むことを。主の麗しさを仰ぎ見、その宮で、思いにふける、そのために。(詩篇27:4)
ダビデは偉大な王として世の全てのものを手に入れましたが、彼の願いは「主の麗しさを仰ぎ見、その宮で、思いにふける」ことだというのです。しかしそれでは、私たちの生活はどうなるのだと思われる方もいるかもしれません。そのことに対して、聖書はこのように約束をしてくださっています。
しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。(マタイ6:32)
前回も語りましたが、父と子は共に世界を創造され、私たちに命を与えてくださいました。であるならば当然のこと、神様(創造主)は、私たちの必要の一切をご存じです。それどころか、私たち自身ですら気付いていない私たちの問題や必要をご存じです。そしてその解決のために主イエス・キリストが十字架の上で尊いご自身の血(命)を犠牲にしてくださいました。これが前回書かせていただいた「特別恩寵」の内容です。
では、子なる神がこれほどの犠牲を払ってくださっている間、父なる神様は何をしていたのでしょうか。全人類の罪、痛み、苦しみをキリストが一身に背負って、大声で叫ばれていた間、父なる神様は目を背けておられたのでしょうか。
そして、三時に、イエスは大声で、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」と叫ばれた。それは訳すと「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。(マルコ15:34)
実はこのことこそ、私たちが知るべき「神の愛」です。ある人たちは、キリストのこの言葉を聞いて「ああ彼は死に直面して絶望し、神に対する信仰を失ってしまった」と言います。また「神様は結局助けてくれなかったではないか」と言う人もいます。しかし、前回引用した箇所を思い起こしてください。「たましいの贖(あがな)いしろは、高価であり、永久にあきらめなくてはならない」(詩篇49:8)ほどのものなのです。
ですから、もしも父なる神様が、直前でキリストを救い出してしまったら、私たちの魂が贖われることはかなわなかったのです。だからこそ父なる神は、自分の激しい心の痛みを押し殺して沈黙されたのです。この時の父なる神様の心の痛みが表現されている場面があります。
さて、十二時から、全地が暗くなって、三時まで続いた。(マタイ27:45)
「全地が暗くなって」とわざわざ書いてあるほどですから、これはちょっと天気が悪くて曇っていたというような話ではありません。これはまるで創造主である父なる神の深い心の痛みに、御使いや被造世界が共鳴し、共に喪に服しているかのようです。
そうはいっても、結局は父なる神はキリストを死なせたのだから、そこまで大切に思ってはいなかったのではないかと思われる方もいるかもしれません。しかし神はイエスに対して明確に「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」(マタイ3:17)と語っておられます。
当然のこと、父なる神様は心から「ひとり子」なるイエスを深く愛しておられるのです。しかしそれにもかかわらず、罪の中で滅びに向かっている私たちを思う愛の故に「ひとり子」を与えてくださったのです。このことは聖書に明確に書かれています。
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ3:16)
これを聞いても「ふ〜ん」としか感じられないかもしれません。それは、私たちが犠牲を払う当事者ではないので、それがどれほどのことか分からないためです。そこで神は、大昔に一人の人を選んで、ご自身の深い心の痛みの一部を共有されました。
神は彼に、「アブラハムよ」と呼びかけられると、彼は、「はい。ここにおります」と答えた。神は仰せられた。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい」(創世記22:1、2)
これはまだイエス・キリストが生まれる前の話です。アブラハムには子どもがなく、高齢となっていました。しかし神様の恵みにより、彼は100歳の時にイサクという男の子を得ました。ところが神様はアブラハムに対して「全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい」と言われました。
なぜ神様はこのようなひどいことを命じられたのでしょうか。もう1カ所聖書を引用してみましょう。
そして、「アブラハムは神を信じ、その信仰が彼の義とみなされた」という聖書のことばが実現し、彼は神の友と呼ばれたのです。(ヤコブ2:23)
アブラハムは「神の友」と呼ばれるほど、神と親密な人物でした。ですから、ある意味で神様はご自身の深い「心の痛み」を彼に共有されたのです。とはいえ、神様はアブラハムがイサクをささげるのを止められ、アブラハムに子どもを失わせはしませんでした。ただ、その直前まで沈黙されることで、ご自身の心の痛みがどれほどであるかを彼に伝えられたのです。
本当の友とは、楽しいことを共にするだけでなく、悲しみをも共有できる人のことです。アブラハムは聖書の中で唯一「神の友」と呼ばれた人物ですが、彼は父なる神様の激しい心の痛みを先行的に追体験したのです。そして、この時のアブラハムの信仰に呼応して、神様も一つの約束を与えられました。これは「アブラハム契約」と呼ばれるものです。
「これは主の御告げである。わたしは自分にかけて誓う。あなたが、このことをなし、あなたの子、あなたのひとり子を惜しまなかったから、・・・あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。あなたがわたしの声に聞き従ったからである」(創世記22:16、18)
アブラハムは、神がなぜこのような理不尽な命令をされたのか、完全には理解できていませんでした。しかし彼は、神様が何の理由もなくこのようなことを言う方ではないことは分かっていましたから、神の言葉に従順したのです。その結果、神様もまた「あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる」と約束してくださいました。
ところで、神様はアブラハムに対しては直前で止められ、子どもを失わせはしませんでしたが、ご自身はキリストが十字架上で処刑されるのを止めることをせず、深い深い心の痛みを感じられながら、最後まで「沈黙」されました。つまりキリスト・イエスは全身から血を流して肉体の痛みを経験され、父なる神は独り子の死を受け入れるという深い心の痛みを感受されたのです。
このことは、イエスの十字架の死を後から意味付けしたものではありません。イエスが生まれるよりもはるか昔、アブラハムがイサクをささげにいくとき、アブラハムは深い心痛の故に、非常に寡黙に道を歩いていましたが、一言だけ短い言葉を発しています。
イサクは父アブラハムに話しかけて言った。「お父さん。」すると彼は、「何だ。イサク」と答えた。イサクは尋ねた。「火とたきぎはありますが、全焼のいけにえのための羊は、どこにあるのですか。」アブラハムは答えた。「イサク。神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ。」こうしてふたりはいっしょに歩き続けた。(創世記22:7、8)
息子イサクが、神にささげる羊をつれていかないことを不思議に思って父アブラハムに質問したところ、彼は「神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ」と答えました。アブラハムは息子イサクをささげるつもりでしたから、彼自身も自分が語っている内容を正確に理解していたわけではありませんでした。
これは、父なる神様がご自身のしようとされていたことを、友であるアブラハムの口を通して預言されたことなのです。そしてその預言通りに、神がアブラハムに対して「ひとり子」をささげよと命じた、まさにその地で、父なる神様が「ひとり子」イエスを、犠牲の子羊として人類に与えてくださったのです。
自分が苦しみを体験するよりも、わが子が苦しむのを見る方がつらく、自分が殺されるよりも、わが子が殺されることの方が耐え難いというのが親の心情です。それにもかかわらず父なる神は、私たち一人一人を愛する大きな愛の故に、独り子が十字架で犠牲となることを止めようとはしませんでした。むしろ、アブラハムに語りかけられる以前から、ご自身でそのことを計画し、約束し、最後まで成し遂げてくださいました。これが祝祷の中で宣言されている「神の愛」なのです。
聖書は歴史を教えている本でも、道徳の教科書でもありません。いかに神様が私たちを深く愛してくださっているのかをいろいろな方法で語っているのが聖書であり、その愛を感謝して受け取るのが信仰者です。このあまりにも大きな神様の愛が、あなたに向けられているのです。ですから、この事実を「他人事」としないで、一人でも多くの方が「自分事」として気付いてほしいと思います。
愛のない者に、神はわかりません。なぜなら神は愛だからです。神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。(1ヨハネ4:8〜10)
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