元エホバの証人の方との対談記事を連載で書かせていただいています。前回は聖霊について伺いましたが、今回は教会での葛藤について話してくださいました。インタビュアーである私はY、今回証言してくださる元エホバの証人の方はHと表記させていただきます。
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Y)教会に通うようになった後も、さまざまな信仰的な葛藤があったかと思いますが、そのことについてもお話しいただければと思います。
H)証人の組織に通わなくなり、その1年後から教会探しを行い始めましたが、最初のうちはどの教会に通っても違和感がぬぐえませんでした。証人たちを教会に通いにくくしている要素は、神学を抜きにして以下の通りです。
1)各席に袋で回される献金がある。
証人の見解:1世紀当時のクリスチャンは献金袋を回したりしなかった。献金箱が置いてあるだけで、そこに自発的に献金をささげた。(ルカ21章1〜4、第2コリント9:7)
個人的見解:この点についてはずっと違和感がありましたし、やはり最初につまずいてもおかしくないと思います。
私が解決できた聖句は以下の通りです。
「私がそちらに行ってから献金を集めるようなことがないように、あなたがたはおのおの、いつも週の初めの日に、収入に応じて、手もとにそれをたくわえておきなさい」(1コリント16:2)
この聖句の中では、毎週献金することを勧められています。その際に袋か献金箱かは定められていません。であれば、それがどちらの方法であっても構わないと思えるようになりました。
Y)献金の扱いはデリケートなものですので、やり方が異なると違和感を感じるというのはそうなのでしょうね。証人の方に限らず、初めて教会に来られる方々がつまずくことがないように、配慮が大切になってくるかと思います。
2)賛美歌が生演奏である。曲数が多い。
証人の見解:生演奏は前に出ている人が目立つのであって、神様が主役ではなくなっている。
個人的見解:賛美について学びを深めることのできる書籍との出会いがあり、本来の賛美とは賛美奏者が目立つものではなく、黒子のような役割で聴衆が神様に目を向けるように心掛けながら演奏することに奥の深さがあると知るようになりました。
Y)前に出る人も出ない人も優劣があるわけではなく、礼拝において各人に役割があるということかと思います。
3)みんなで一斉に祈る。
証人の見解:バプテスマを受けた資格ある男性だけが聴衆の前で祈ることが許されている。
個人的見解:論理的理解というより、体験的に経験したことのない違和感があったことを覚えています。今ではこちらの方がより霊的に落ち着くようになっています。
Y)なるほど、私も皆で一斉に祈ることに慣れていますが、これはプロテスト教会でも、教派などによって形式は異なるかと思います。ただ、第一コリント14章にも、違和感を覚える人に対する配慮について言及がありますし、40節には「すべてのことを適切に、秩序正しく行いなさい」とあるので、その状況に応じて愛をもって配慮するということが必要なのでしょうね。
H)第一コリント14章に記載されている違和感を覚える人に対する配慮は異言についてのようですが、確かに他の面でも配慮は必要なのかもしれないですね。
4)十字架を偶像だと思い込んでいる。
証人の見解:教会に入る以前に、十字架=偶像だと教え込まれているため、教会の建物を遠くから見ただけで偶像崇拝の場所だとの誤解が強い。よって、たいていの場合教会の中に入ることさえちゅうちょする。また、一般の教会はカトリックでもプロテスタントでも大いなるバビロンだと思い込んでしまっている。
個人的見解:私の場合は、中澤啓介牧師著『十字架か、杭(くい)か』の論文をネット上で拝見して、十字架に対する誤解を解いた上で教会に通ったことは大きな助けになりました。
Y)こちらも、なるほどですね。外部から見るとそのように見られる可能性はあるわけですね。ただ、ご存じの通り教会は十字架を拝んでいるわけでもありませんし、十字架自体を信仰の対象としているわけでもありません。もちろん信仰の対象は、神様のみです。クリスチャンはイエス・キリストの十字架の犠牲を通して、神の愛、罪の贖(あがな)い、魂の救いというメッセージを受け取っていて、十字架はその象徴として掲げているのです。
H)はい、クリスチャンが十字架を拝んではいないことは、お陰様で教会に通い始めてすぐに理解できました。
5)父と子の関係
教会に通い始めて、メッセージを聴いたり、信徒さんの祈りや証しを聴くようになったりしましたが、その神概念については2013年から数年間は違和感があり続けました。というのも、エホバの証人は三位一体ではない「父であり神として ”エホバ”」を強調します。祈りもメッセージも証しも、すべてにおいて ”天の父エホバ神” 一点でした。
しかし、教会に通うようになると、三位一体の神として祈り、三位一体の神との関係において祈りや証しをしてくださっているのですが、やはりどうしても ”イエス様” が一番に強調され、その次に聖霊様、その次に天の父の順での距離感に思えることが多々ありました。個人的に感じたことですが、天の父の存在が遠いように思えて時折さみしさを覚えました。それはある程度、長老派、バプテスト派、ペンテコステ派でも共通して見られました。もう少し、天の父の存在もイエス様と同じくらいの距離感であったらと、時々思うことがあります。
Y)とてもよく分かります。やはりエホバの証人の方々の台頭のためか、教会側がヘブル語の「יהוה (YHWH)」をエホバから主と置き換えたことにより、固有名詞としての意味合いが希釈されている部分があるのかもしれません。しかし教会においても、祈りの始めは必ず「父なる神様」と祈りますから、父なる神様が私たちの信仰の中心であることは間違いありません。ただ、おっしゃられている距離感については、もしかしたらクリスチャンの方々の中に「父なる神は罪を犯したら罰する厳しい方で、イエス様は子どもを膝に抱かれる優しい方だ」というようなイメージが無意識の中にあるのかもしれません。主は三位一体なるお方であり、本質において「一」なるお方ですから、父は厳しくてイエス様は優しいということではないのですが、旧約聖書のイメージや肉の父親のイメージなどにより、そのような誤解があるのかもしれません。
H)ありがとうございます。やはり ”エホバ” と表現することで証人たちと同様に見られてしまうことを懸念されるのかもしれませんね。しかし、そうするとますますエホバの証人は「神の御名を用いているのはやはり自分たちの組織だけだ」と別の意味で確信を深めてしまうので、ぜひ可能であればプロテスタント諸教会でもイエスの名と共にエホバ(ヤハウェ)の御名を用いていただきつつ、三位一体の概念が深く浸透していってもらえたらと願います。若い世代のワーシップで「ヤハウェ」の御名をたたえる歌詞があるのを知ったときはとても励まされました。
Y)ありがとうございました。
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今回は、Hさんがキリスト教会に来られたときに感じた葛藤や違和感などを率直に語ってくださいました。幸いにもHさんは、一つ一つの疑問を自分の中で消化することができましたが、彼と同様の境遇の方々の多くは上記に挙げたような事柄に違和感を覚えて教会に来ることができなかったり、来たとしても無言で去ってしまうようです。もしも皆様の周りにもそのような方がいたら、これらのことを知ってできる限りの配慮をしてあげてほしいと思います。もちろん、各教会の方針があり、譲れない部分もあるかとは思いますが、このようなことに違和感を覚える方々がいるということを知っていただくだけでも接し方が変わってくるかと思います。
さて、今後新たに記事になりそうなテーマが明確になったときには、追記させていただくこともあるかとは思いますが、今回で「元エホバの証人との対話」シリーズはいったん終わりにしたいと思います。公開させていただいた内容以外にも、多くのお話をしていただいたのですが、中核的な部分はシェアできたかと思います。その中核的な部分とは、やはり三位一体に対する解釈の相違です。突き詰めて言えば、神は唯一であるのに、なぜ子も聖霊も神だと言えるのかという点です。これは非常に難解なことですので、エホバの証人の方が「父だけが神であり、信仰の対象である」と主張されるのも理解できることではあります。三位一体についてさらに理解を深められたい方は、以前本紙において「三位一体の神様」という連載をさせていただきましたので、そちらを参照していただければと思います。
今回の連載は、単に異なるグループを批判するのではなくて、お互いの相違を理解し合うための契機になればという思いで書かせていただきましたが、いかがでしたでしょうか。難解な部分もあったかとは思いますが、最後まで読んでいただきありがとうございました。また、今回の連載のために、ご自身の体験を基に多くのことを語ってくださったHさんにも、とても感謝しています。ありがとうございました。もっといろいろな話を聞きたいという方は、「エホバの証人への福音」というユーチューブチャンネルの方でも、彼と同名サイトの管理人様との対談動画がアップされていく予定のようですので、そちらもご覧いただければと思います。
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