元エホバの証人の方との対談記事を連載で書かせていただいています。前回は、バプテスマとデボーションについて伺いましたが、今回は輸血問題と排斥との関係について伺いました。インタビュアーである私はY、今回証言してくださる元エホバの証人の方はHと表記させていただきます。
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Y)エホバの証人といいますと、輸血を拒否されるという話をよく聞きますが、これはどのような理由からなのでしょうか。
H)はい、その理由となる聖句は以下の通りです。
「肉は、そのいのちである血のあるままで食べてはならない」(創世記9:4)
「どんな血でも食べるなら、わたしはその血を食べる者から、わたしの顔をそむけ、その者をその民の間から絶つ」(レビ記17:10)
上記2つの聖句から、血は命そのものであり食べてはならないという理解です。 ここで、食べないことと、医療行為としての輸血を結び付けているのが証人ならではの解釈です。
また、新約聖書に基づいた理由として、 以下の聖句を引用します。
「偶像に供えて汚れた物と不品行と絞め殺した物と血とを避けるように」(使徒15:20)
使徒たちが血を避けるようにと命じていることも医療行為と結び付け、輸血を禁じるようになりました。
Y)聖書に書かれていることを拡大解釈しているようにも見えますが、実際に輸血ができないことによって身近な方が命の危険に陥ったというような事例はあるのでしょうか。
H)そうですね。拡大解釈に当たると思います。それによって身近な人が命の危険に陥ったという例は今まで聞いていません。現在は医療が充実し、エホバの証人以外でも医療上の観点から輸血を拒否する患者もおり、無輸血での手術を行っている病院も増えてきました。また、無輸血手術をお勧めする医者が本を出版しているほどです。ただ、ここでの最大の問題点は、医療上の危険以上に、輸血をした場合に組織から排斥されることです(輸血をした場合でも、悔い改めて二度と輸血はしないと誓うなら排斥されずに済みますが、何度も繰り返し輸血するなら悔い改めていないと見なされ排斥となります)。組織から追い出されることは、彼らにとっては霊的な死と直結しており、永遠の命の希望が絶たれることを意味します。
Y)組織にはさまざまな決まり事があるように思いますが、一つでも決まりを犯すと排斥されてしまうのでしょうか。それとも輸血の戒めは、他の決まり事よりも重いものということでしょうか。
H)はい、一つでも組織内のルールを破り、悔い改めることなく繰り返すなら排斥になります。輸血が特別に重いというより、ルールを破ることそのものが排斥事項に当たります。それ以外に、たばこを吸い続けた場合も排斥処置になります。組織は、”聖書の原則”だと主張します。しかし、輸血やたばこは聖書に明確に記載されている内容ではなく、個人的に決定する事柄です。しかし、私たちの体は聖霊の宮(1コリント6:19)であることを理由に、それらは体を汚すものだから、悔い改めない場合は排斥というわけです。
Y)一般のキリスト教会の中でも、体が聖霊の宮であるというのは同じ理解です。そのため、体に害を及ぼすほどの過度の飲酒や喫煙を控えるように説教の中で語られることはありますが、それを理由に排斥されたり、救いを絶たれたりということにはなりません。それは赦(ゆる)しの概念ともつながっているような気がします。 おそらく証人の方々も、キリスト・イエスの十字架の贖(あがな)いによって罪が赦されると教えているかと思いますが、赦しの概念について、証人の方々はどのように考えているのでしょうか。
H)キリスト・イエスの贖いの故に罪が赦されることは教えています。基本的に悔い改めれば排斥になることはありませんが、罪を繰り返したり悔い改める姿勢が見られないと判断されると排斥になります。赦すという概念については、例えば排斥になったとしても、それはその排斥者がまた戻ってくるために必要な訓練の過程だと教えています(へブル12章)。排斥されることによって、家族とも疎遠になり、あいさつの言葉を掛けてもらうこともできなくなりますが(2ヨハネ10)、悔い改めればまた戻ってくることを許されます(2コリント2:5〜8)。
第二コリントの中でも、処罰を受けた人を許してあげる必要性について書かれています。 この箇所は、その前の手紙である第一コリント5:11〜13に記載されていることが原因で排斥になった方が悔い改めた場合の対処方法について記載されているのだと思われますが、 証人たちも同じように、たとえ排斥になったとしても悔い改めて戻ってくるなら許す姿勢は持ち合わせています。
話は少し逸れますが、私の場合、組織からは完全に背教者扱いです(※文字通り聖書の真理から背を向けたと見なされます)。その間、街中で学生時代からの旧友に会ってもあいさつをされることもなく、目を合わせることもなく、無視され距離を置かれてしまいます。最初の数年間はその切なさとの戦いでした。もちろん今でも胸を痛めますし、夢を見ることもあります。しかし、無視をしている方たちも、嫌いだから無視しているのではなく、私がいつかは真理(※彼らの中で形成している真理 )に気付いてまた証人の組織に戻ってくることを期待しています。
組織の出版物による説明では、その排斥処置でさえもその人に対しての愛だと教えます。戻ってこない場合には、ハルマゲドンが来たときに滅ぼされてしまう設定になっています。ところが私は、その組織が神が用いておられる組織ではないと思ったから出てきたわけで、そこに関しては悔い改めの概念とはまったく異なります。私の親族はほぼエホバの証人ですから、教会側から見た場合には、私は救いの初穂であり、証人の組織から見た場合には放蕩(ほうとう)息子と呼ばれます。
Y)第二ヨハネ10節は、その前の7節にある箇所を受けてのものです。つまり「イエス・キリストが人として来られた」ことを否定する「反キリスト」 に対しては距離を置きなさいという内容です。ところが、それを組織を離れた者に当てはめ、目を合わせることもなく無視されるということになりますと「信仰」ではなく、その疎外感を恐れるあまり、組織に留まらざるを得ないという人も出てきてしまいそうですね。これは証人の方々に限らず、キリスト教内でも同様のことが起こる可能性がありますので、警鐘を鳴らす必要を感じます。
H)おっしゃる通りだと思います。反キリストに対しての距離の置き方について書いてある聖句ですが、証人の組織の場合、そこを批判して出ていく時点で反キリストだとの理解です。というのは、キリストが霊的な花嫁として用いておられるのはこの組織のみだと教えていますから、それを批判する=キリストを批判することになり、悪魔の側に付く(反キリスト)と見なされます。その意味では、整合性が取れているといえるのかもしれません。
Y)そのような疎外感に耐えつつも、組織を出ることを決められ、輸血に対する考え方も変わられたのだと思いますが、そこにはどのような経緯があったのでしょうか。
H)私の場合は、息子の将来のことを考える時期に、輸血に対して疑問を持ったのが、インターネットで情報を調べ始めるきっかけとなりました。
Y)輸血自体というのは普段の生活ではあまりすることもないですが、やはり大切な息子さんの将来を考えたときに、そこに疑問を持たれたということですね。
H)息子がいざ何か大きなけがをした、手術が必要だと想定した場合、本当に100パーセント輸血をしないという判断が聖書的なのかどうかを真剣に考えるきっかけを与えられました。もちろん、不必要な輸血は体に良くないことは当然ですが、生命の危機的状況においては必要な場合もあるとの判断に至りました。 ただ、利権が絡んだ「輸血ビジネス」との言葉もあるように、現代医学において本当に必要な量だけの輸血をされているのかという疑問点もあるのは確かなので、輸血に関しては慎重な姿勢でありつつ100パーセント回避はしないとの立場です。
Y)詳しいお話をありがとうございました。
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確かに聖書の中に「罪を犯しても悔い改めようとしない者」「父の妻を妻とするほどの不品行な者」「神を汚す者」「キリストが人として来られたことを告白しない者」などに対して、交わりを絶つように命じている箇所はあります。マタイ18:15〜17、1コリント5:1〜13、1テモテ1:20、2ヨハネ9〜11などです。そしてそれは、証人の方々が言うように、罪を犯した者が悔い改めるためです。
今回の連載については、エホバの証人の方々を一方的に欠席裁判するような記事にはしたくないという思いがあるので、最後にキリスト教内の「戒規」についても触れておきたいと思います。エホバの証人の組織同様、一般のキリスト教会にも「戒規」と呼ばれる規定があり、聖書に書かれているような罪を犯し続ける者に対する対応が書かれています。この場合、いきなり除名するのではなく、「戒告」「陪餐停止」「除名」という段階があり、「除名」にまで至るケースは非常にまれなように思います。とはいえ、「戒規」の規定自体はキリスト教会にも聖書にもあるのですから、エホバの証人の方々の「排斥」というのは重い言葉ですが、そのような教義自体が特異というわけではありません。
今回の「輸血をした場合に組織から排斥される」というケースに関しては、「輸血」=聖書が禁じている「罪」だというのが特有の解釈によるものである点、それにもかかわらず排斥されてしまう点、組織から排斥されてしまうこと=「永遠の命の希望が絶たれること」となる点などが気になります。読者の皆様は、どうお考えになるでしょうか。
ところで、キリスト教内においても、もしも各教会独特のしきたりや特有の聖書解釈などがあり、それを受け入れない方はその教会にいづらくなったりするようなことがあれば、それも問題を含んでいるといえます。反対に「戒規」自体が軽んじられることにも警鐘を鳴らす必要があります。例えば、自分が問題を引き起こしているにもかかわらず、こちらの教会で「戒規」を受けたら他の教会に行けば済むと考える方もいるかもしれません。もしくは、時代の風潮的に「戒規」というもの自体が軽んじられ、適切な導きを受ける機会を逸しているようなケースも少なくないでしょう。
非常にデリケートなテーマではあるのですが、「すべてのことを適切に、秩序をもって行いなさい」(1コリント14:40)とありますように、各自が謙遜な姿勢で望むことが必要であり、何よりもこれらすべてのことが、主の愛に根ざしたものである必要があるのだと感じます。
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