元エホバの証人の方との対談記事を連載で書かせていただいています。前回は、終末の年代予言について伺いましたが、今回は私たちの信仰の要であるイエス・キリストをどのように捉えているのか、またエホバの証人の方々が使っている「新世界訳聖書」について話が及びました。インタビュアーである私はY、今回証言してくださる元エホバの証人の方はHと表記させていただきます。
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Y)一般のキリスト教においては父子聖霊は位格においてそれぞれであるが、本質において「一」である。すなわち三位一体なる神を信じています。これに対して、エホバの証人の方々は、神は唯一であるから、父なる神(エホバ)だけが唯一神であり、神の子と呼ばれるイエス様や聖霊は、神ではないという理解だと思います。三位一体というのは難解な部分がありますから、そのように理解される方々がいること自体は理解できるのですが、私が驚いたのは、イエス様を御使いの「かしら」大天使ミカエルであると主張している点です。この辺りのことは、どのように教えているのでしょうか。
H)大天使ミカエルだとする根拠となる聖句は、第一テサロニケ4章16節の1カ所だけです。
「主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます」(新改訳第三版)
この「御使いのかしら」がミカエルですが、この聖句から ”主=御使いのかしら=ミカエル” と結び付けています。しかし、これは文脈を見れば明らかですが、主は「御使いのかしらの声」と「ともに」下ってくるのであって、「主は御使いのかしらである」と書かれているわけではありません。 それ以外に、イエスがミカエルであることを決定づける聖句はありません。
また、彼らの新世界訳聖書が2013年に改訂されており、私も今調べて判明したのですが、なんとその聖書箇所が以下のように改訂されていました。
「主が天から下り、天使長の声で号令を掛け、神のラッパが鳴り響くと、キリストと結ばれて死んだ人たちがまず生き返るからです」
Y)少し日本語の接続詞や助詞を変えるとまったく違う意味になるということはあると思いますが、エホバの証人の方々が使っている「新世界訳聖書」が改訂されて、より彼らの教理を裏付けるようになっているということでしょうか。それでは逆に言うと、以前の「新世界訳聖書」ではそのように読めないということでしょうか。もしも、昔の「新世界訳聖書」を持っていたら確認をお願いします。
H)「主ご自身が号令とみ使いの頭の声また神のラッパと共に天から下られると、キリストと結ばれて死んでいる者たちが最初によみがえるからです」(新世界訳1985年版)。この訳ですと、新改訳とほぼ同じように読み取ることができます。
Y)私はよく英語の聖書のKJVとNIVを比較するのですが、多くの箇所で表現に差があることを感じます。それを見ると、翻訳という作業は純粋に直訳するというのは難しく、多かれ少なかれ訳者の解釈が反映されてしまうということを感じます。ですから、意味が不明瞭な場合には、信頼できる訳の聖書を2つ3つ比べるということが有益な場合があります。また同じ訳でも、改訂されるときに、単に現代語に置き換えている場合と、今回のように微妙に文脈の意味やニュアンスが変わってしまう場合があり得ますので、改訂前の聖書と改訂後の聖書を比べることが必要な場合もあるということかと思います。
ところで、ヘブル書1章は、御使いと御子を区別された存在として説明していますが、この箇所についてはどうでしょうか。
「御子は、御使いたちよりもさらにすぐれた御名を相続されたように、それだけ御使いよりもまさるものとなられました。神は、かつてどの御使いに向かって、こう言われたでしょう。『あなたは、わたしの子。きょう、わたしがあなたを生んだ。』またさらに、『わたしは彼の父となり、彼はわたしの子となる。』」(ヘブル1:4、5)
H)鋭いご質問ありがとうございます。 私自身、へブル1章の箇所、特に「かつてどの御使いに向かって」との言葉は、イエスが御使いではないことを決定づけている箇所の一つだと考え、三位一体を受け入れる過程において「御使いではない存在」であることが前提で聖書を調べるきっかけになりました。
続く1章13節でも「かつてどの御使いに向かって、こう言われたでしょう。『…わたしの右の座に着いていなさい』」とあります。 証人たちも、イエスが神の右の座に着く方であることは認めています。この箇所は、神が御使いに対してその右の座に着くようにとは言われなかったことを証明する聖句です。
それは、証人の新世界訳1985年版の聖書でも証明可能です。 へブル1章13節「しかし、み使いたちのうちのだれについて神はかつてこう言われたでしょうか。『わたしの右に座していなさい。わたしがあなたの敵をあなたの足台として据えるまで』」
Y)ヘブル書はイエス様の神性を考える上で、大切であると言えますね。ところで、私は証人の方々の主張にも、とても興味深いものがありました。 このヘブル書にも御子に対して「生んだ」という表現がありますし、コロサイ書にも以下のような表現があります。私は以前に証人の方にこの箇所を指摘されるまで、御子が「生まれた方」であるということを考えたことがありませんでした。
「御子は…造られたすべてのものより先に生まれた方」(コロサイ1:15)
H) 新世界訳では「全創造物の初子」とありますから、証人にとっては、イエスには被造物としての始まりがあったと主張しやすい聖句となっています。
Y)もちろん「生まれた」というからには、造られた被造物ではないと言えるわけですが、「生まれた」からには、それ以前は存在していなかったと捉える方もいるわけです。 三位一体は神様ご自身の存在、つまり神秘の部分ですので、私たちはすべてを一度に理解できるわけではありませんが、明確なところを少しずつ増やしていくことが大切なのだと思います。
H)まったくおっしゃる通りです。私自身、すべてにおいて整合性が取れないように思えても、明確なところの割合を少しずつ増やしていくことで、三位一体の神であることを認めざるを得ない状況になっていったのだと思います。
「生まれた」という表現に関して明確な答えが得られなかったとしても、それ以外の箇所において、例えば黙示録1章8節にある「わたしはアルファであり、オメガである」との言葉は、イエス様ご自身がおっしゃったことは否定できません(※証人は否定しますが)。 となると、「生まれた」という表現=「始まりがあったこと」とは別として解釈することも可能になります。このように聖書的な真理をどこに見いだすか、どこにウエイトを置くかによって、その他の聖書箇所の捉え方も異なって見えてくると考えます。
Y)次に、トマスの告白についてはどうでしょうか。
H)トマスは、イエスに対し「わたしの主、わたしの神!」と言っています。通常、証人たちはこの箇所を読んだとしても、「わたしの神!」はあくまでも天の父エホバに対して言っていると主張します。
しかし、この箇所について証人の組織内にある資料をどう調べても、「わたしの神!」=エホバだとする根拠は見当たりませんでした。 それどころか、”トマスはそのように考えたのかもしれない” との説明があったのみでした。それを調べていたのは現役時代だったので、長老たちにも質問してみましたが、はっきりとした回答は得られませんでした。この時に私は「イエスが神であることは否定できないかもしれない」と思い始めるようになりました。
Y)最後に、有名なヨハネの福音書の冒頭箇所についてはどうでしょうか?
「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた」(ヨハネ1:1、2)
H)この箇所については、証人の立場なりの見解があるようです。「新世界訳」ではこう訳されています。
「初めに言葉がおり、言葉は神(God)と共におり、言葉は神(a god)であった」(ヨハネ1:1)
ここで、「言葉は神であった」の箇所に不定冠詞の(a)を挿入することで、「神のようであった」もしくは「神聖を備えていた」という意味に捉えることが可能な訳し方になっています。それにより、(God)と(a god)を同一視すべきではないと主張します。
Y)不定冠詞に関しては、エホバの証人自体も、自分たちのサイトの中で「1世紀のギリシャ語に不定冠詞(“a” や “an”)がなかった」と認めています。しかし、彼らは同時に古代のコプト語訳に注目して、自分たちの聖書の訳の正しさを以下のように主張しているようですね。
「サヒド・コプト語訳は、ヨハネ1章1節の最後の部分にある “god” に不定冠詞を付けています。それを翻訳すると、『言葉は神(a god)であった』となります」
ところで、ご自身はどのように三位一体を理解されていったのでしょうか。
H)もし反三位一体などの先入観なくヨハネ1章1節を読むことができるのであれば、「言葉(つまりイエス)は神であった」と書かれていることをシンプルに受け入れやすいかと思います。
私のように、もともと反三位一体の立場を擁護する側であった者が、神(God)と共にいながら神(God)であったことを受け入れるためには、まず他の聖書箇所から「一つの神格でありながら三つの位格が存在する」ことの理解を先に深めていく必要があるのではないかと考えます。その過程において、イエスが御使いではあり得ないことを先に受け入れることができれば、ヨハネ1章1節の読み方に変化をつけることが可能になります。
少なくとも私の場合はその順番で整理することによって、イエスの神聖について「全知全能の神ご自身である」との理解にたどり着くことができました。その理解の過程を与えてくださったのも、神様の大きな憐(あわ)れみと恵みによると感謝しています。
Y)ありがとうございます。
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さて、部分的に見ると、エホバの証人の方々の主張が的を得ているように感じる部分もありました。ただ聖書の解釈に関しては、前回も言いましたが「原則」が必要です。それは、2つの解釈が矛盾して見える場合には、より明確な聖句を基軸に据えるということです。
今回の場合には、古代コプト語訳のヨハネ1章1節には不定冠詞が付いていたから、ギリシャ語の原語の聖書にもそのようなニュアンスがあったはずだというのは一つの推測です。また、その不定冠詞により、神(God)ではなく、「神のようであった(a god)」と訳せるはずだというのも推測の域を出ません。
それに対して、先ほど確認した通り、御子が「御使いよりもまさるもの」であることは明確にヘブル書に書かれており、また使徒トマスがイエス様に対して「わたしの主、わたしの神!」と告白し、イエス様がそれを否定されなかったこともヨハネ20章28節以下に書かれています。これらをどう読むかということが各自に問われています。
他にも三位一体については、言葉を尽くさなければならないことが多いですが、今日はここまでにしたいと思います。解釈に差こそあれ、証人の方々の教義はあくまでも聖書を基にしています。ですから、このような議論を通して、私たちも証人の方々の考え方に対する理解を深めていければと思います。また証人の方々においても、教義にとらわれずに聖書に書かれていることをそのまま読む機会になればと思います。また、改訂前の聖書や他の訳の聖書を読み比べることは、証人や一般のクリスチャンを問わず、聖書理解を深めるために役立ちますので、お薦めしたいと思います。
私たちは多くの場合、自分で聖書を読んで自分で理解するというよりは、誰かに教えてもらい、それをうのみにすることの方が多いように思います。それが一番楽だからです。もちろん、信頼できる指導者や先生から学ぶということは大切です。しかし、聖書は各自が自ら読むことによっても理解できるように書かれています。そして主を知ろうとする者には、主の御霊が理解を助けてくださるとも約束してくださっています。今回、Hさんと対談しながら感じたことは、彼が非常に積極的に自分で考え調べ、疑問に思ったことを長老たちに素直に質問し、それでも不明な場合は、聖書自体を何度も読み直したということです。彼のこのような姿勢の中に、私たちは学ばされる点が多いのではないでしょうか。
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