元エホバの証人の方との対談記事を連載で書かせていただいています。前回は、エホバの名前や三位一体の理解について伺いましたが、今回はバプテスマとデボーションについて話が及びました。インタビュアーである私はY、今回証言してくださる元エホバの証人の方はHと表記させていただきます。今回は私の説明は省き、インタビューの内容をそのまま掲載させていただきたいと思います。
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Y)エホバの証人として活動された期間は何年ほどになるのでしょうか。その中でさまざまな体験をされたと思いますが、話せる範囲でお願いします。
H)はい、約20年です。小学6年から学び始めて、中学に上がり、エホバの証人の聖書理解(教理)も少しずつ学ぶようになりました。彼らの集まりは集会と呼ばれ、それに定期的に出席するようになったのは中学2年の時でした。そのきっかけは中高生が非常に多かったことです。同学年だけでも6人いたので、レクリエーションやキャンプを通して親しくなり、集会に行きやすい環境になりました。
エホバの証人のバプテスマを受けたのは高校2年の時です。自分の信仰によってというより、同年代が高校生で次々とバプテスマを受けていたので、その影響が大きかったように思います。短大を卒業して、20歳の時に開拓者と呼ばれる伝道者となり、21歳で奉仕の僕(教会でいう執事)の奉仕に携わっていました。しかし父が倒れたこともありその奉仕は断念し、フルタイムの仕事を探すことになります。通信系の会社に勤めていたときに、当時教会に通っていた妻との出会いがあり、教会のことについて知るきっかけが与えられました。しかし、妻には証人の聖書の理解を私から伝道し、結婚後、妻も3年間だけエホバの証人として歩むようになりました。
Y)同年代の友達がバプテスマを受けたことにより影響を受けたというのは、よく分かる気がします。ところで、バプテスマというのは、水の中に全身入る形をとるのでしょうか。
H)はい、教会が教えているように、以前の生き方に対して死んで、新しく生きるという意味で、全身すべてが水の中に入ることを彼らも重要視しています。また三位一体は信じていませんが、父と子と聖霊との名においてバプテスマを授けます。
Y)キリスト教会では執事になるのはもう少し中年になってからというイメージもありますが。21歳で執事職というのは、よくあることなのでしょうか。
H)21歳で奉仕の僕(執事職)は、エホバの証人の組織では一般的です。しかし、そのほとんどが開拓奉仕といって、月に70時間以上を伝道に充てている男子の奉仕者にその役割が与えられます。証人たちは子ども時代から彼ら独自の神学校に入学し、演壇から聖書を読むことやメッセージを語ることを訓練されており、奉仕の僕という役割を与えられると演壇から日曜礼拝のメッセージを任されるようになります。
Y)比較的若い方々にも、メッセージを語ることが任されているということですね。ところで、クリスチャンであった奥様を伝道して同じエホバの証人となられたとのことですが、このような事例はよくあるのでしょうか。また奥様はクリスチャンからエホバの証人となることに戸惑いや、葛藤のようなものはなかったのでしょうか。
H)カトリック、あるいはプロテスタントのクリスチャンからエホバの証人になるという事例も幾つかあるようです。その際に、教会に通っていた方たちがおっしゃるのは、エホバの証人のように聖書を開く機会が少なかったということです。私自身、教会に通い始めて、一般の信徒の方が聖書を開く機会が極端に少ないと感じました。
妻の場合ですが、なりたいと思っていきなりエホバの証人になれるわけではなく、幾つかの段階を踏みます。集会に通うまではもちろん戸惑いも葛藤もありますが、通い始めると、彼らの新しい人に対する歓迎ぶりは徹底していますので、すぐに親しくなってしまいます。その後、集会に行くことが習慣化されると、聖書の教えについて彼らの解釈を1年以上かけて理解し、証人の組織が提供する神学校に入学し、伝道者として奉仕し、毎週2回の集会に欠かさず出席します。そのような過程を経て初めてバプテスマの討議を2カ月かけて受講し、承認が下りたらバプテスマに至ります。バプテスマの討議の段階ではエホバの証人の聖書理解が正しいと思っていますので、戸惑いも葛藤も一切なくなっていきます。
Y)新約聖書の使徒パウロの姿を見ていると、熱心に聖書を読み、学び、伝道するというのは、聖書が信仰者たちに求めている姿勢であるように感じます。そういう意味ではクリスチャンである私たちももっと聖書を学び、信仰を実践するようになりたいと思います。ただ、その熱心さが「そうでないと裁かれるから」という不安や恐れからではなくて、キリストの愛のうちに根差す必要があるということかと思います。
H)おっしゃる通りだと感じます。これまでの数年間の教会生活を通して、聖書はそうでないと裁かれるような不安や義務感を抱いて読むものではなく、喜びを持って読む書物であるということを、特にデボーションという読み方を通して学ばせていただきました。また、聖書通読をするにしても以前とは読み方がガラリと変わり、御言葉を通して神様がダイレクトに語ってくださる喜びがあるのは、最高の恵みであり祝福です。
Y)なるほど、デボーションというのは個人的な祈りの中で聖書を読み、神様の語り掛けてくださるメッセージに心と耳を傾けるということですが、証人の方々はそのような読み方はされないということでしょうか。
H)はい、証人たちはデボーションという読み方はしません。聖書を読んで分からないところがあれば、組織内で発行されている辞書や参考書を調べて聖句の意味を結論付けます。その根拠として、使徒8章31節「導いてくれる人がいなければ、どうして分かるでしょうか」が挙げられます。聖書は信頼できる誰かを通して教えられる必要がある書物であるとの理解のもと勉強しているので、証人たちは信者が聖句の意味を独自に解釈することがありません。その意味では、分裂がなく世界的に一致しているといえます。逆に、組織から重点的に教えられていない聖句や、はっきりとした答えが得られない箇所については、自分で読んで考えるということが極端に弱いので、ほぼ思考停止状態に陥ります。
教会生活においてデボーションの分かち合いなどから学ばされましたが、信徒各自が神様から直接御言葉を受け取り、その時々の状況において聖句を適用させるというのは、大変魅力的に思えました。半面、勝手な解釈をされる方もいらっしゃる可能性もあるので、そこは軌道修正できるリーダーが必要ではないかと感じます。
Y)先ほどの「導いてくれる人がいなければ、どうして分かるでしょうか」という言葉は、エチオピアの宦官がピリポ執事に言った言葉ですが、この時には、彼はまだイエス様のことについて知りませんでしたので、この時点での彼の告白は正しいと思います。しかし、信仰を告白し、聖霊様が内住しているクリスチャンは、聖書と聖霊様によって直接教えられることも多いですよね。もちろん、礼拝のメッセージを通して牧師先生に教えられることが基本となりますが、個人的なデボーションを通して与えられる恵みも大切にしたいと、お話を聞いていて、あらためて思いました。
H)はい、私が好きな聖句の一つに、第一ヨハネ2:27があります。「あなたがたのうちには、御子から受けた注ぎの油があるので、だれかに教えてもらう必要はありません。その注ぎの油が、すべてについてあなたがたに教えてくれます」。この聖句は、私がデボーションに対して積極的に向き合うことを可能にしてくれました。これも一つの大きな恵みです。
もちろん、聖書の基礎的な事柄に関しては特に、牧師先生に教えていただいたからこそ現在の聖書理解に至ったことは確かなので、上記2つの聖句のバランスを取り、デボーションの恵みを日々与えられている中においても、何でも自分の都合の良いように解釈してしまうことは避けたいと思います。
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