主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがたすべてとともにありますように。(2コリント13:13)
これまで「主イエス・キリストの恵み」「神の愛」について書かせていただきましたが、ある意味で一番大切なのが「聖霊の交わり」です。しかし世間的には、この方は全く認知されていません。
おそらくクリスチャンではない方でも「三位一体」という言葉は聞いたことがあり、父なる神、また子なる神であるイエス・キリストについては一定の認識があると思います。ところが「聖霊」について知っている方は非常に少ないと思います。「精霊」と混同されている方もいるほどです。
しかし、それは神様の定めたことなのかもしれません。イエス・キリスト自身がこの方についてこのように証言しています。
■ 世に知られない方
その方は、真理の御霊です。世はその方を受け入れることができません。世はその方を見もせず、知りもしないからです。しかし、あなたがたはその方を知っています。その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられるからです。(ヨハネ14:17)
繰り返しになりますが、イエス・キリストは、ある意味で世界一有名です。多くの人々は米国の大統領に会うよりも、イエス・キリストに会うことを望むでしょう。それは今も昔もそうですし、クリスチャンであるなしにもかかわらずです。
ところが人々は、聖霊様に対して関心があまりありません。エホバの証人の方々は、聖霊は人格のない神のエネルギーのようなものだと言いますし、一般の方々の中には、名前すら聞いたことがないという方も少なくないでしょう。ではなぜ、世はこの方を受け入れることができないのでしょうか。
それはまず第一に、聖霊様は文字通り「霊(プニューマ)」なるお方であるので見ることができません。例えば、イエスと同時代の人々は、敬虔な人もそうでない人も、イエスを愛する者も憎む者も、皆が彼を見ることができました。それは子なる神が受肉(incarnation)され、この地に誕生してくださったからです。しかし私たちは聖霊様を肉眼で見ることができません。
ところが、目に見えない方であるということは、存在しないということではありません。J・D・サリンジャーが書いた『ライ麦畑でつかまえて』という本の中にこのような一節が出てきます。「キリストが死ぬ前の弟子たちときたら、てんでだらしがないじゃないか」
表現がユニークなので今でも覚えています。うる覚えですので正確に引用できているわけではありませんが、的を得た表現だと思います。後に大使徒と呼ばれる12弟子たちは、キリストの十字架を前に、裏切り、裸で逃げ出し、3度も「知らない」と彼を否定しました。確かに彼らは「てんでだらしがなかった」のです。
しかし使徒の働きに出てくる彼らは、すっかり別人になっていました。大勢の人々の前で大胆にイエスがキリストであると宣言し、病の人に手を置いて癒やし、悪霊を追い出し、権力者たちによって拷問されても、一歩も退くことがありませんでした。何が彼らをここまで変えたのでしょうか。
彼らがこう祈ると、その集まっていた場所が震い動き、一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語りだした。(使徒4:31)
それはシンプルに、彼らが聖霊に満たされたからです。聖書に詳しい方は、使徒の働き2章において、弟子たちが初めて聖霊に満たされたペンテコステの事件を知っているでしょう。しかし彼らは、一度だけ聖霊に満たされるように求めて祈ったのではなく、何度も祈り、何度も聖霊に満たされました。そのことが描かれているのが、今引用した使徒の働き4章です。
聖霊なる神は霊(プニューマ)なるお方なので、誰も見ることができません。しかし、その方を求め、受け入れる人にとっては、人生を180度変えるほどの大切な存在なのです。
■ 誰にも注がれていなかった方
では「どのようにしたら」もしくは「どのような人々に」聖霊は注がれるのでしょうか。それを知るヒントが、ヨハネの福音書7章に書かれています。
これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。(ヨハネ7:39)
イエスが十字架で血を流して死なれ、3日目に復活されて栄光を受ける前には、聖霊(御霊)は、誰にも注がれていませんでした。これはどうしてでしょうか。もしも使徒たちが、その前に聖霊に満たされていれば、イエスの十字架刑を前にして逃げ出すということはなかったでしょう。
しかし、イエスが十字架で私たちの罪の贖(あがな)いを成し遂げる前には「御霊はまだ注がれていなかった」のです。それは、聖霊が単に霊(プニューマ)なる方であるだけでなく、聖(ハギオス)なる方であるということと関係しています。
だから、わたしはあなたがたに言います。人はどんな罪も冒瀆(ぼうとく)も赦(ゆる)していただけます。しかし、聖霊に逆らう冒瀆は赦されません。また、人の子に逆らうことばを口にする者でも、赦されます。しかし、聖霊に逆らうことを言う者は、だれであっても、この世であろうと次に来る世であろうと、赦されません。(マタイ12:31、32、※「人の子」とはイエスのこと)
子なる神であるイエス・キリストは罪ある人々の友となられ、その罪を背負い、贖うために来られました。ですから彼は罪人たちと食事を共にしましたし、いくら人々が彼を冒瀆し、逆らったとしても赦してくださいます。
ある人々は「もし、神の子なら、自分を救ってみろ。十字架から降りて来い」などと好き勝手なことを言いました。それでも主は、そのような人々に対してさえも一方的な恵みを与え、大きな愛で包んでくださっています。
しかし、聖(ハギオス)なる聖霊様は、冒瀆されるようなお方ではありません。それどころか、罪ある人は聖(ハギオス)なる方と何の関係もなく、交わりを持つこともかないません。だからこそ「世はその方を見もせず、知りもしない」のです。聖霊様を迎え入れるためには、私たちも聖(ハギオス)なる者とされ、この方を歓迎しなければなりません(ヘブル12:14参照)。
ところがどうでしょうか。昔から律法学者たちは戒めを守り、修行者たちは自分を律して、罪や欲から離れようとしてきました。それでも人類は誰一人として自ら聖なる者となることができませんでした。
しかしイエスが十字架の上で、私たちの魂を贖い、その血で私たちをきよめ、神に受け入れられる聖なる者としてくださいました。これが最初に書かせていただいた「主イエス・キリストの恵み」です。聖書は大胆にこのように宣言しています。
今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。(ローマ8:1)
ですから、この恵みを受け入れ、罪赦された者たちに、初めて聖霊が注がれたのです。これは、キリスト者は罪を犯さないということではありません。地上にある間、誘惑に負け、罪を犯して神様を悲しませることもあるでしょう。それでも、イエスの血によって贖われた人々を神は聖なる者と認めてくださり、聖(ハギオス)なる方が、その人の内に臨んでくださるのです。
弟子たちはイエスと共にいた時も、悪霊を追い出し、病を癒やし、神の国について語りました。しかし、その誰にも聖霊が注がれることはありませんでした。ところが、主イエスの十字架の血によってきよめられ、聖なる者とされた彼らは全員が聖霊に満たされました。その結果として、世界中にキリストの福音が宣べ伝えられるようになったのです。
キリストを3度否定したペテロは、聖霊に満たされた後、福音を多くの人に伝えたがために、逆さ十字架にかけられました。また、弟のアンデレはX字の十字架にかけられて処刑されたと伝えられています。人々は、彼らを記憶して、自国の国旗などに使うようになりました。アンデレがかけられたX字の十字架は、スコットランド(英国)の国旗やロシア海軍などの軍艦旗として今に至るまで使われています。
■ 最後に
では、イエスが十字架上で血を流され、私たちの罪を贖ってくださったことだけで、聖霊様は私たちの内に来てくださるようになったのでしょうか。実は、それだけではありません。聖霊が臨まれるためには、もう一つのことが必要でした。事実、弟子たちは主の十字架の出来事の後、すぐに聖霊に満たされたわけではありません。実際に弟子たちが聖霊を初めて受けたのは、7週が経過してからでした。
このことについては、旧約聖書の時に定められた土地に関する律法からひも解いていかなければなりません。また、ある意味で一番大切なのが「聖霊の交わり」ですとも書かせていただきましたが、その意味についても、次回以降また書かせていただければと思います。
今回私が強調したかった点は、聖霊様が霊(プニューマ)なるお方であり、聖(ハギオス)なるお方であるということです。ですから、この方に対しては哲学的、科学的にアプローチすることは何の意味もなしません。
最も賢い人も神の霊の世界を知ることはできませんし、どんなに正しい人でも、聖(ハギオス)なる方の前に立つことはできません。また「聖霊が実在するなら現れてみよ(証明してみよ)」というような態度の方は、真理の御霊を決して「受け入れることができません」。そして「見もせず、知りもしない」のです。
しかし神は無条件の愛と、主イエス・キリストの一方的な恵みによって私たちを聖なる者とし、霊(プニューマ)であり、聖(ハギオス)なる方との交わりに加えられる者としてくださいました。そして一人でも多くの方が聖霊なる神との交わりに入れられることを望んでおられます。
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