主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがたすべてとともにありますように。(2コリント13:13)
今年に入り私は、祝祷についての連載を始めさせていただきました。それはキリスト教信仰が三位一体なる神様に対するものであり、私たちが神様を「知る」ことがとても大切だからです。しかし「知る」というのは、実は簡単なことではありません。
12弟子たちはイエス様と寝食を共にし、24時間イエス様と共にいましたが、イエス様のなされたことも、語られた言葉の意味も「知る」ことができずに、皆が散り散りになっていきました。それは、ただ真理の御霊だけが、私たちに神の言葉を理解させてくださるからです。
弟子たちはキリストの復活を目撃したと聖書に書かれています。トマスは、復活されたイエス様の手の釘の痕と、脇腹の傷を目の前に見ました。それでも彼らは、すぐに宣教を開始せずに、一つ所で祈り続けました。直接に主の復活を見たのであれば、彼らの確信は100パーセントなはずです。ですから、その確信によって世界宣教を開始しても問題ないように思えます。しかし彼らは、聖霊が与えられるまで待ちました。それはなぜでしょうか。一つには、イエス様からこのように命じられていたからです。
彼らといっしょにいるとき、イエスは彼らにこう命じられた。「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい。ヨハネは水でバプテスマを授けたが、もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです。」(使徒1:4、5)
彼らは、自分の信仰の弱さ、未熟さ、理解力のなさを痛切に感じていました。といいますのも、彼らは復活を目撃する前にも、毎日のようにイエス様のなされた奇跡を目撃していました。それでも彼らは、十字架刑を前にキリストを裏切り、くもの子を散らすように逃げたのです。ですから彼らは、自分の確信・信仰深さ・誠実さなどに頼って宣教を開始しようとはしませんでした。彼らはイエス様に命じられた通りに心を一つにして祈り、「父の約束(聖霊のバプテスマ)」を待ったのです。
ところが、聖霊のバプテスマは、すぐには与えられませんでした。彼らは、7週後の50日目(五旬祭・ペンテコステ)になるまで待たなければなりませんでした。これにはどのような意味があるのでしょうか。それを考えるためには、旧約聖書に書かれている「七週の祭り」を思い起こさなければなりません。
イスラエルの人々が年の最初にするのが「過越の祭り」、そして2番目の大きな祭りが「七週の祭り(シャブオット)」です。この祭りは、7週(49日)を経た50日目の日曜日に行われます。レビ記にこのように書かれています。
あなたがたは、安息日の翌日から、すなわち奉献物の束を持って来た日から、満七週間が終わるまでを数える。七回目の安息日の翌日まで五十日を数え、あなたがたは新しい穀物のささげ物を主にささげなければならない。(レビ23:15、16)
イエス様は罪ある私たちの魂を贖(あがな)うために「過越の祭り」の時に十字架で犠牲となってくださいました。そして聖霊様は2つ目の大きな祭りである「七週の祭り(シャブオット)」の時に弟子たちのうちに臨まれたのです。これらの背後には、父なる神様の遠大なご計画があります。
では、「七」また「49日目、50日目」にはどのような意味があるのでしょうか。まず最初に思い浮かぶのが、神様が天地を創造されて、第7日目に安息に入られたことです。そのため「七」は完成・完全を表す数字として聖書の中で繰り返し用いられています。例えば、ヨシュアがエリコの城を攻め落として勝利したとき、彼らは6日間、エリコの町を回り、7日目には「七度」町を回りました。その時、堅固なエリコの城の城壁は崩れ落ち、イスラエルは大勝利を収めました。「七」は完成・完全を表す数字ですが、それが繰り返されることで、決定的な神様のご介入と、神様の「時」が示されているのです。
イエス様の弟子のペテロが、「主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何度まで赦(ゆる)すべきでしょうか。七度まででしょうか」と聞いたときに、イエスはこのように答えられました。「七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います」(マタイ18:21、22)。これは7×70=490回という「計算」に意味があるのではなくて、「七」という数字を繰り返すことによって「完全」に赦しなさいと教えているのです。
ところで、「七」という数字がとても大きな意味を持って繰り返されている事柄が、旧約聖書にはもう一つ書かれています。それは「ヨベルの年」といわれるものです。もともと7年ごとに主は「安息年」というものを定めました。その年になると、人々は畑仕事をせずに「土地」を休息させました(レビ25:3、4)。そして7年ごとの安息年を7回繰り返した、49年目に角笛を鳴らし、その翌年の第50年目を聖別し、国中の全ての住民に贖いと解放を宣言しました。これがヨベルの年です。
あなたは、安息の年を七たび、つまり、七年の七倍を数える。安息の年の七たびは四十九年である。あなたはその第七月の十日に角笛を鳴り響かせなければならない。贖罪の日に、あなたがたの全土に角笛を鳴り響かせなければならない。あなたがたは第五十年目を聖別し、国中のすべての住民に解放を宣言する。これはあなたがたのヨベルの年である。あなたがたはそれぞれ自分の所有地に帰り、それぞれ自分の家族のもとに帰らなければならない。(レビ25:8〜10)
このヨベルの年には、人々は土地を休ませただけでなく、借金の全てが免除されました。自由な経済活動は、今も昔も富の格差を生むのですが、この時代には自分の土地だけでなく、自らを奴隷として売らなければならないほど困窮するということがありました。そして、ひとたび奴隷となってしまった人々は、自力で自らを買い戻して(贖って)自由人となるということは不可能でした。ですから、売られてしまった土地や、奴隷となっていた人々が、7回の安息年を経た50年目に解放されることが、主の律法によって定められていました。この年は「恵みの年」とも呼ばれていて、国中に大きな喜びがありました。
ところで、2021年の「ダボス会議」のテーマが「グレート・リセット」でしたが、この「グレート・リセット」という概念のもとになっているのも、今回紹介したヨベルの年のようです。つまり(賛否はあるでしょうけれど)長年の資本主義によって生じた社会の「ひずみ」をリセットしようというものです。これらのことは日本では、聞き慣れない言葉だと思いますが、日本人にとって親しみのある習慣とも今回の話は関連しています。まずは、ヨハネの福音書を読んでみましょう。
これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。イエスはまだ栄光を受けておられなかったので、御霊はまだ注がれていなかったからである。(ヨハネ7:39)
普通に読むと「聖霊(御霊)が注がれる」ことと「イエス様が栄光を受ける」ことに何の関係があるのかと思われるかもしれませんが、イエス様は「わたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします」(ヨハネ16:7)と言われました。何度も言っているように、助け主聖霊が弟子たちに注がれたのは50日目(五旬祭・ペンテコステ)です。つまりイエス様は十字架で死なれて復活され、弟子たちのもとを去った後、7日×7週(49日)を経た50日目に、天で「栄光」を受けられ、そしてご自身の弟子たちに御霊を注がれたということになります。
イエス様が受けられた「栄光」というのは大きなテーマになりますので、いつか機会があれば皆様と一緒に考えたいと思いますが、7日×7週(49日)を経た後に完成されるというのは、仏教のある習慣とも酷似しています。それは人が亡くなった後にもたれる「四十九日(しじゅうくにち)」という喪の期間です。この期間は「七七日(しちしちにち・なななぬか)」とも呼ばれますが「七週」のことです。この期間、親しい人々は故人のご冥福を祈り、この期間を経て、亡くなった人の魂は仏様のもとへ行くと考えられています。
まさにイエス様が「四十九日(七週)」を経て、父なる神のもとに帰って栄光を受けられたこと、その間お弟子たちが一つ所に集まって、祈りに専念していたありさまと酷似しているわけです。私は比較宗教学の専門家ではありませんから、この類似性が偶然によるものなのか、宗教が伝播していく過程で、影響を受けたものであるのか、はっきりとしたことは言えません。ただ、私が住んでいる沖縄においても、「シーサー」をはじめさまざまな伝承が中東から伝播していること、またユダヤ・キリスト教的なものが、さまざまな形で、インドやお隣の中国に伝播していることは承知していますので、日本人が普段「日本古来の独自のもの」もしくは「神道的、仏教的」と思っている風習の中に、聖書的なものが浸透しているとしても不思議はないのです。
以上のように、聖書は非常に重層的に、またさまざまなメタファーを含んだものとして書かれています。整理しますと、7日×7週(49日)を経た50日(年)目とは、七週の祭り=ヨベルの年=聖霊降臨節(ペテンコステ)であり、その意味は、以下のようなものになります。
旧約の時代:土地の安息、借金(dept)の贖い(赦し)の宣告、奴隷状態からの自由、収穫祭
新約の時代:(土から作られた)人の安息、罪(dept)の贖い(赦し)の宣教、罪の奴隷状態からの自由(真理の御霊による自由)、魂の収穫
旧約の律法に定められているイスラエル民族独自の地の理(ことわり)がメタファーとなって、全世界的な天の理(ことわり)として昇華しているありさまがよく分かるかと思います。これらのことは、ルツ記をはじめとした聖書全体が語っていることです。そして私たちが「聖霊の交わり」に入れられるときに、聖書が語っている「安息」「解放」「贖い」「自由」などの天の祝福が、皆様一人一人の魂の内側において結実していきます。今回は、神様のご計画の精緻なことを示すために、いろいろなことを書かせていただきました。しかし実は、特に難しく考える必要はありません。主は求める全ての人に聖霊を注いでくださるお方だからです。
イスラエルの民は、7度の安息年を経て50年目(ヨベルの年)に自由と解放を与えられました。使徒たちは7週(49日)の祭りの間祈り続けて50日目に聖霊を与えられました。しかし今の時代においては、待つ必要はありません。このように書かれています。
わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。・・・天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」(ルカ11:9〜13)
ある方々は、主イエスに対する信仰を持った後に、聖霊を受けることを求めます。またある方々は、主イエスに対する信仰を持ったと同時に聖霊を受けたと信じ、求めるのは聖霊に満たされることだと言います。各自が心の中で確信を持たれればよいと思います。大切なことは、各人が謙遜になり、主イエス・キリストの恵み、父なる神の愛、聖霊の交わりを感謝して受け入れることです。主は喜んで「安息」「解放」「贖い」「自由」などの天の祝福を与え続けてくださいます。
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